スピノザの方法 國分功一郎〈著〉4月10日 朝日新聞読書欄から。

評者:斎藤環 精神科医   黒字化は芥川。
 
神に酔える哲学者、スピノザ。況神論やコナトゥスといったその普定性の哲学は日本でも人気が高い。超訳ニーチェに続き超訳スピノザが売れたとしても私は驚かない。
 
ところで本書は単なる「スピノザ入門」ではない。その哲学を可能にした「方法」をひたすら問うこと。それがこの異様にリーダブルな哲学書の通奏低音である。
 
私はこれまで、デカルト的二元論の「切断性」にスピノザ的な「連続性」を対立させて考えていた。しかし著者によれば、これはよくある誤解らしい。デカルトの哲学は説得のための哲学である。スピノザは説得を放棄することでデカルトの限界を乗り越えようとした。スピノザは命令しない。「ただ一緒にやりましょう」と誘惑するのだ。
 
その違いは、スピノザによるデカルトの注釈書『デカルトの哲学原理』のテクストの緻密な検討から明らかになってくる。もちろんここでも問われるのは、その「方法」だ。

哲学を可能にした「方法」を問う
 
方法論を問うことは、ただちに「方法論のための方法論のための方法論……」という無限遡行の問題に突き当たる。この逆説をどう克服するか。著者による整理は簡潔である。「精神は、みずからの形成する観念の連結によって指導・制御される。そしてみずからに固有の知性の諸法則に出会い、それを学んでいく」。つまり方法と方法論、あるいは行為と規範は区別できないのだ。
 
かくして迎える第7章「スピノザの方法」は、本書のクライマックスである。思考の享楽、著者とともに考える愉(たの)しみがここにある。

神の存在を証明したければ、証明しようとしてはいけない! なぜそうなるのかは、ぜひ本書を読んで確かめて欲しい。
 
その方法を教育の理念とする著者は「教師はみずからの消滅をめざして活動」せよと述べる。それが私の考える理想の治療者に近いのは、たぶん偶然ではないだろう。

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