「創造する力」松沢 哲郎著 4月17日、日経新聞読書欄から。
松沢哲郎さん…50年生まれ。京都大霊長類研究所所長。
冒頭のエピソードに心が和んだ。著者が初めてチンパンジーのアイと会った日のこと。アイの目を見ると、アイも著者を見つめ返した。袖当てを腕からすーっと抜いて渡すと、すーっと自分の腕に通した。驚いていると、すーっと腕から抜き、はい、と返した。
この瞬間、「アイ・プロジェクト」が始まる。
500万年前に共通の祖先をもつチンパンジーを知ることによって、人間が人間たる理由を探る。
本書は昨年還暦を迎えた著者が、30余年にわたるチンパンジー研究からたどりついた「人間とは何か」への回答である。
アイが言葉を覚えたことで有名になったように、私たちは彼らがいかに優秀であるかに目を奪われがちだ。だが著者が示すのは、逆に人間のユニークさ。見つめ合い、模倣し、手をさしのべ、欺くなど、人間が4、5歳までに行う過程のほとんどがチンパンジーにもある。
だが明らかにないものがある。
「人間とは」30年の研究の回答
役割分担や利他性の先にある互恵性。自分の命を差し出してでも他者に尽くす、自己犠牲だ。
チンパンジーには「他者の心を理解する心」がないからやむをえない。あるかもしれないが証明する手立てがないという。言語行動によってしか証明できない点がこの研究のむずかしさで、著者が四半世紀もの間、ギニアのボッソウに通い続けたのも、野生チンパンジーの自然の暮らしにその手がかりを探すためだった。
チンパンジーが人間の成人より瞬間的な記憶に優れているという最新の研究結果も示唆に富む。その理由を説明する「トレードオフ仮説」は明快である。
人間は瞬間的な記憶を失う代わりに言語をもち、対象をシンボル化する能力を得た。
子育てや狩猟など、必要な情報を仲間と共有するにはそのほうが好都合だからだ。
「今ここ」を生きるチンパンジーは、だから明日を思い煩うことはない。一方、人間はたやすく絶望する。だが著者は記す。「絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況のなかでも、希望をもてる」。
アイたちが教えてくれた人間の力が今、最大の試練を迎えている。
評者:ノンフィクションライター 最相 葉月