「曾根崎心中」 角田光代〈著〉…2・5、朝日新聞・読書欄から。

近松門左衛門原作、リトルモア・1470円/かくた・みっよ 67年生まれ。作家。『八日目の蝉』 『森に眠る魚』

恋によって瞬く生の凄まじさ

読み始めると、ページをめくる手が止まらなくなった。近松門左衛門と曽根崎心中については高校の授業で覚え聞いた程度で、原作を手にとる機会など一度もなかった。角田さんという名手が書き下ろしてくれなかったら、恋の力というものに想いを巡らすこともなかっただろう。

時は江戸時代、遊郭にいる女達の日常から物語は始まる。堂島新地という閉ざされた土地のさらに小さな単位である遊郭は、庶民の日常と切り離された異空間であり、女達は文字通り寵の鳥が鳴くようにとりとめのない会話に花を咲かせていた。

外の世界への扉を開くのは、恋である。客として何人の男がやってこようと彼女らの扉は一向に開かれないのに、恋をすることによって固く閉ざされた扉はあっけなく開き、それどころか、ためにため込んだ力を一気に発散させるかのように、ここではない別の世界へとぶっ飛んでいく。頂点に達したときには彼岸へさえも旅立たせてしまう恋のエネルギーは、一見するとどろどろした心中話を真っ向から突き抜いて、後味の悪さを一滴も残さない。

遊郭の女達は新地を出て橋を渡ることを夢見ている。しかし、ただ橋を渡ってもダメなのだ。好きでもない男に身請けされて、目も耳も感覚も閉じたまま背負われるように橋を渡るのではなく、自ら扉をこじ開けて、全身で世界を見に行く必要がある。死んだように生きるくらいなら、生きるべくして死ぬ道を選ぶ。恋によって支えられた生の瞬きの凄まじさが小説のなかに横溢していて、それゆえに残酷でせつない。

こうした想いを受ける側の男達の不甲斐なさが気になる。徳兵衛も九平次も、遊郭に出入りする助平どもも、内から光を放つ女達のかっこよさ潔さに比べたらどうにも頼りない。かくいう自分もその一員だとしたら、色々と省みなくてはいけないだろう……。

評・石川 直樹 写真家・作家

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