「正義のアイデア」アマルティア・セン著…日経新聞2月12日19面より

既得権益から離れる「不偏性」強調  《評》東京大学教授 大瀧 雅之
文中黒字化は芥川。

本書は、アジア人でただ一人ノーベル経済学賞を受賞しているセン教授による正義論である。八十歳に手の届く教授の大作であり、それ自身、著者の知的人生を窺う上で、十分に読む価値のある本である。

内容・文章の構成とも些か晦渋であるが、通読するとその主張は明確である。嘗て芥川龍之介は、「良心とは厳粛なる趣味である」と一言のもと喝破したが、その厳粛さとは何かが、詳述されていると解釈することが、私たち日本人にとっては適当であろう。

登場する用語の定義が曖昧であることは、本書の大きな問題点であるが、後述するように、「正義」の構成要件として既得権益から離れることを要求する「不偏性」の考え方、『正議論』で知られるロールスらの一度合理的な社会が生成された時、それに従うのは構成員の半ば義務であるという「先験的アプローチ」への批判は、まさに本書の白眉といえよう。

しかしながら、本書には誠に不思議な特徴がある。「正義」を論ずるに際して「正義」とは何かの明確な定義がなされていないことである。本書が強く非難する広義の(個人間効用の比較可能性を前提としない)功利主義においては、「パレート効率性」という「善」のもと、それを達成する手段として「正義」が明確に定義できる。

この考え方は、ムーアの「善」とは優れて状況依存的な概念であり、状況が特定されなければ、一般に「善」を定義すること能わずという命題とも矛盾しない。

すなわち、ある特定の経済問題という状況に限定して枠をはめているから、経済学的「正義」は内実を持ち得るのである。

こうした問題はあるものの、状況によらない「正義」の絶対的構成要件として、「不偏性」の要求が繰り返し強調されていることは、重鎮であるセン教授の主張ゆえに、極めて重みがある。

経済学者に限らず、論者の主張の適否を理解する上でも、こうした姿勢は欠かせない。この点からだけでも、私たちは襟を正して本書に接する価値があると考える。

(池本幸生訳、明石書店・3800円)

▼著者は33年インド生まれ。ケンブリッジ大で博士号収得。オックスフォード大、ハーバード大教授などを歴任。98年にノーベル経済学賞を受賞した。

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