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田中退任後の展開
1974年12月に、田中は、「金脈問題」で首相の座を追われた。
オイルショックによる経済の混乱などもあり、交通網の整備は順調に進まなくなった。
しかし、1980年の国鉄再建法によって鉄道の在来線建設や既存在来線の高速化などが抑制されて特定地方交通線の廃止が進み、整備新幹線の着工も長く見送られた一方、高速道路など道路網の整備はその後も進み、道路建設は主にガソリン税の増税などによって実施された。
結果として、多額の借金を国や地方自治体は抱えることとなり、様々な批判が出るようになった。
日本にとって、首都の過密と地方の過疎は、当時よりも一層深刻な問題になっており、少なくとも田中が「日本列島改造論」を著したのはこうした状況への問題提起としての意味を持っていた。
交通網の整備で様々な課題が解決するという発想は、余りに楽観的で「土建業一辺倒だ」という批判もある。
地方から過密地(特に首都の東京)へ向かう交通網の整備は、東京一極集中を促進して、過疎化を逆に促進する傾向もあった(ストロー効果)。
地方での道路の整備は地方都市の郊外化を招き、中心市街地を衰退させる結果となった。
現在建設されている、新幹線や高速道路などは、首都の東京へ向かう路線が多く、地方間を結ぶ路線の建設が遅れているという側面もある。
こういった場合、東京へ人口が流入するという現象が現れるのは仕方がなく、地方間の路線を建設することにより、「均衡ある発展」が実現するという論説もある。
田中は、本書の結びに、『情報通信の全国的ネットワーク』の時代の到来を予言している。
キャプテンシステムやニフティサーブ等のパソコン通信サービスが一般化されるのは、10年後の80年代のことであった。

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