しかしこれを見た延暦寺の僧侶が妬み、疎石の流罪と天龍寺の破却を強訴したため…。
疎石は、博多の商人至本を綱司に推挙し、至本は、「商売の好悪」にかかわらず五千貫を納める約束をし、一方幕府は、この船を当時瀬戸内海に横行していた海賊などから保護する責任を負った。
こうして、康永元年(1342)には五山の第二位に位置づけられ、翌2年には仏殿、法堂、山門などが完成し、3年には霊庇廟(後醍醐天皇霊廟)も落成した。
この完成により、翌康永4年(1345)8月に、光厳上皇と光明天皇の臨幸を仰いで、落慶法要と後醍醐天皇七回忌法要を行おうとした。
しかしこれを見た延暦寺の僧侶が妬み、疎石の流罪と天龍寺の破却を強訴したため、上皇と天皇は法要当日の行幸を取りやめ、翌日に行幸にて疎石の説法を聴聞したという。

2012/4/15、天龍寺・曹源池庭園にて。