京大卒と大々的に報じられた容疑者――学歴と責任、そして歪められた戦後モラリズム

事件の容疑者が「京大卒業」と大々的に報道されたことへの強い違和感を起点に、筆者自身の学歴体験と恩師の言葉を振り返りつつ、学歴と人格・責任の乖離を鋭く批判する。さらに、朝日新聞や大江健三郎らが形成してきた戦後日本の「似非モラリズム」「似非共産主義」「似非社会主義」の歪みが、今回の事件にも通底していることを告発する。

容疑者は、京大卒業である事も大々的に報道された。
2017-01-17。
以下は前章の続きである。
容疑者は、京大卒業である事も大々的に報道された。
高校1年生時に、私が進学すべきは東大ではなく京大であると決めた事は既述のとおり。
私の母校は宮城県下の中学校の1、2番が進学する学校であり、日本を代表する進学校の一つである。
高校2年生の時、世界史の教師はロシア革命に関する単元で、「ここは俺よりも、Kが詳しいから」と言って、二回、合計2時間、私を教壇に立たせて講義をさせた。
私が中学生の時分に、トルストイの「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などを読破していた事は既述のとおり。
それで、私は当時のロシアの社会について詳しかったのである。
彼はある時、廊下で私に言った。
「お前は京大に残って、その両肩で京大を背負って立たなければならない」
人生として仕方のない経緯で、私は恩師の言のとおりに人生を歩む事は出来なかった。
大阪で実業家としての人生を送った。
その間、何度か言及した事がある。
京都大学に入って出て来る人間は掃いて捨てるほどいる。
だが、恩師から京都大学に残って大学を背負って立てなどと言われる人間は、数少ない。
前章の男について、京大を卒業している人間だと報道された事で、なおさら呆れた人は多かったと思う。
今回の事件とその態様、特に日本のメディアの在り方を看過してはいけないのは無論だが、これまでの態様、朝日新聞や大江健三郎などが創り、これに同調して来たいわゆる文化人たちが作り上げて来た、似非モラリズム、似非共産主義、似非社会主義は正されなければならない事も、今回の事件は表している。

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