嵐山を観て思うこと――京都という時間の深度

嵐山の景観は近世だけでなく、平安以前へと連なる時間の層の上に成り立っている。
京都に刻まれた文明の深度は、歴史と文化への無知と野卑さを際立たせる。


最近、私は嵐山を観ていて思ったのである。
2016-01-03
例えば、現在の嵐山の景観を形作る大きな要素の一つである大堰川を開削した角倉了以。
角倉了以は、天文23年、1554年に生まれ、慶長19年、1614年に没した戦国期京都の豪商である。
朱印船貿易の開始とともに安南国との交易を行い、私財を投じて山城の大堰川や高瀬川を開削した。
さらに幕命により富士川、天竜川などの開削も行っている。
京都では商人というより、田辺朔郎と並ぶ「水運の父」として知られている人物である。
つまり、米国という国家が姿形すら持たなかった時代に、嵐山の基盤は作られていたのである。
しかし、嵐山の景観がこの時代から始まったものでないことは、言うまでもない。
私が嵐山、天龍寺の後によく訪れる大覚寺の大沢の池は、少なくとも九世紀、八〇〇年代からの景観を、今もそのまま残している。
それは、空海が生きていた時代の景観である。
それだけでも、本来なら大覚寺にノーベル平和賞、あるいはノーベル文学賞を授与すべきだと言うべきなのである。
この京都に原爆を落とそうと本気で考えていたルーズベルトやトルーマンたちの、
その野卑さ、歴史や文化、哲学に対する無知蒙昧さ、
耐え難いどころか、許し難い差別意識。
あるいは、権謀術数と金儲けだけに勤しんできた人間たちの、例えようもない愚かしさと醜悪さ。
私は最近、嵐山に代表される京都、
京都はすべてが素晴らしい、
その姿を見つめながら、そのような思いを強くするのである。
この稿続く。

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