ローマに眠る英国詩人と、京都を思わせるパティオの記憶

ローマ郊外の非カトリック教徒墓地に眠るキーツとシェリー。産経新聞の小さな囲み記事が呼び起こす、スペイン階段近くのホテル、京都を思わせるパティオ、親友との記憶。文学と個人史が重なり合う一章。

2016-02-02

以下の、前章の隣に在った小さな囲み記事は、かつて、縁あってローマに支店を開設した私には、目が留まる記事だった。

*~*は私の文章である。

ローマに眠る英国の詩人。

ローマの南側の城壁の外に、非カトリック教徒の墓地がある。
ローマが法王領だった時代に、カトリック教徒以外は城壁内に埋葬できなかった名残である。

この墓地を訪れる人々のお目当ては、英国ロマン派詩人、ジョン・キーツと、パーシー・シェリーの墓である。

キーツは、貧しく、結核の家系を持つ家に生まれ、ローマに転地療養に来たのだが、
ローマの名所、スペイン階段の下の右側の家、
現在は、キーツおよびシェリー博物館になっている家で、
25歳の若さで、結核のため死んだ。

*このスペイン階段の上に在る、ローマ最高のホテルにも、
その近所のエデンにも、
私は、当時ローマに住んでいた、同級生にして親友の勧めで、宿泊した事が在る。
当時は、今では信じられないぐらいに安かった、日本人の感覚では、モンタルチーノを、
京都を思わせるパティオのある、とても良い、そのホテルのレストランで、
彼と二人で3本も空け、
当日の予定は全てキャンセルして、眠りに着いたり…
夕暮れ時のコンドッティ通りを、親友たちとウィンドウショッピングしたりした思い出が、
都合8回も詰まっている場所なのである。*

一方、裕福な貴族の家庭に生まれたシェリーは、
困難を乗り越えて結婚した妻メアリーを伴い、イタリア各地を回った末、
ラ・スペツィア湾に面したレリチエに居を構えた。

だが、1822年7月8日、
新造したヨットで、リボルノ港から帰る途中、
突然の嵐に巻き込まれ、
29歳の若さで溺死した。

遺体は、海岸で荼毘に付され、
遺骨は、ローマの非カトリック教徒墓地に葬られた。

なお、メアリー夫人は、イタリアに来る前の1817年、
スイスのレマン湖の畔で、
バイロン卿が借りていた別荘に、夫と滞在中、
後世の怪奇映画や怪奇小説の源流となる、
『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』を、書き上げていた。

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