評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。
尾崎秀実が評論家として朝日新聞・中央公論・改造を舞台に展開した中国論を整理。
日中戦争拡大論、国民政府否定、共産化予見、近衛声明への影響、昭和研究会とマルクス主義的国家改造構想までを明確に描き出す。
2017-03-21
評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。
以下は前章の続きである。
評論と政治活動
評論家としては、中国問題に関して『朝日新聞』『中央公論』『改造』で論陣を張った。
1937年(昭和12年)年7月に盧溝橋事件が起こると、『中央公論』9月号で「南京政府論」を発表し、蒋介石の国民政府は「半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョワ政権」であり、「軍閥政治」であるとして酷評し、これにこだわるべきでないと主張した。
また、9月23日付の『改造』臨時増刊号でも、局地的解決も不拡大方針もまったく意味をなさないとして講和・不拡大方針に反対、日中戦争拡大方針を主張した。
11月号では「敗北支那の進路」を発表、「支那に於ける統一は非資本主義的な発展の方向と結びつく」として中国の共産化を予見した。
こうした主張は、翌1938年(昭和13年)1月16日の第一次近衛声明に影響を与えた。
同年『改造』5月号で「長期抗戦の行方」を発表し、日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つということだけ、他の方法は絶対に考えられない、日本が中国と始めたこの民族戦争の結末をつけるためには、軍事的能力を発揮して、敵指導部の中枢を殲滅するほかないと主張した。
また『中央公論』6月号で発表した「長期戦下の諸問題」でも、中国との提携が絶対に必要だとの意見に反対し、敵対勢力が存在する限り、これを完全に打倒するしかないと主張し、講和条約の締結に反対、長期戦もやむをえずとして徹底抗戦を説いた。
第1次近衛内閣が成立すると、近衛文麿の側近として軍の首脳部とも緊密な関係を保った。
近衛は尾崎の正体を知った際に驚愕し、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と天皇に謝罪している。
尾崎が参加した昭和研究会は国策の理念的裏づけを行い、大政翼賛会結成を推進して日本の政治形態を一国一党の軍部・官僚による独裁組織に誘導しているが、昭和研究会のメンバーが同会から発展する形で独自に結成した「昭和塾」のメンバーは尾崎ら共産主義者と企画院グループの「革新官僚」によって構成され、理念的裏づけはことごとくマルクス主義を基にしていた。