「平和と全面講和」の虚構— 曲学阿世が繰り返してきた日本弱体化の論理 —
2017年4月25日に書かれた本稿は、戦後直後に唱えられた「全面講和論」と、現代の集団的自衛権否定論を重ね合わせ、日本の憲法学界に通底する思考停止と現実逃避を鋭く批判する。吉田茂と南原繁の対立を起点に、学者が政治的責任を放棄し続けてきた歴史的構造を明らかにする論考である。
2017-04-25
以下は前章の続きである。
前文略。
文中強調は私である。
◎「平和と全面講和」の虚構
国会で憲法学者が与党推薦も含めて「集団的自衛権の行使は憲法に抵触する」と語ったというので、安倍晋三内閣の支持率が急速に下がった。
この様をみながら、私が高校生だったころの吉田茂首相を思い出した。
当時は米軍占領下で、占領が終われば、各国と講和条約を結んで独立することになる。
吉田首相は「米国と単独講和条約を結ぶ」と表明していた。
一方で「社会主義のほうがよい国がつくれる」との考え方も多く、学者たちは「中ソとの講和」をしたかったのだが、それでは米国を敵視することになる。
そこで米中ソなど全員との「全面講和」を主張した。
吉田首相の単独講和論に対して、学者の総代ともいえる南原繁東大総長は「『全面講和』は国民の何人もが欲するところ。これを論ずるは政治学者の責務である」と食らいついた。
昭和25年3月の東大卒業式でも「平和と全面講和論」を説いた。
これに怒った吉田首相は「南原総長などが政治家の領域に立ちいって、かれこれいうことは、曲学阿世の徒にほかならない」と批判した。
曲学阿世とは史記に出てくる言葉で、時代におもねる学者のことだ。
◎訓詁学に陥った一部の憲法学者
現在、日本は中国の脅威に直面している。
中国は米国に太平洋を半分ずつ管理しようとか、米中だけの「新型大国関係」をつくろうと言っているが、半分ずつに分けられたら日本はどちらの側に入るのか。
学者の多くが集団的自衛権行使に反対しているのは、かつての「全面講和」論に通底しているのではないか。
この稿続く。