石油を断たれた国家――子どもが直感した戦争の現実

蒋介石への米英ソの支援、ABCD包囲網、石油禁輸。小学生だった著者が肌で感じた戦争の現実と、真珠湾攻撃に至るまでの切迫感を、記憶と史料に基づいて描く昭和史の証言。

2017-06-13
以下は前章の続きである。
そして、蒋介石にはソ連、イギリス、アメリカが、惜しみなく援助をしました。
特にアメリカは空軍部隊まで送っています。
当時の日本人は、南京を陥落させて、これで戦争が終わり、皆、凱旋してくるんだと、それを本当に楽しみにしていたんですが、このような事情でそうはならなかった。
出征兵士を送る歌『日本陸軍』というのがありますが、これは十番まであるのですが、私たちは学校で八番の「衛生兵」までしか歌わせてもらえませんでした。
九番が「凱旋」で十番が「平和」だからです。
「九番と十番はまだ歌えないよ」と先生が歌わせてくれないのです。
だから早く九番と十番を歌いたいなあと思っていましたが、歌わせない勢力というのがあったんですね。
真珠湾攻撃にほっとした。
小学校四年くらいの時でしたが、ノモンハンでも日本陸軍は非常に強かった。
夏休みで川に泳ぎにいくと、その話ばかりしていました。
一人で五十機、六十機、敵の飛行機を落とす人もいたんです。
後にソ連の数字が出てからの計算では、日本は約千八百機、ソ連の飛行機を落としています。
一方、日本は百数十機しか落とされていない。
戦車も日本は八百台、ソ連のものを破壊しています。
日本のものは三十台ほどしか破壊されていません。
死傷者もソ連は日本の一・五倍近い数字です。
当時はそんなことはわかりませんが、私たちは「勝った」と言って喜んでいました。
ところが戦後、日本は大敗したとばかり教えられた。
最近になってソ連の資料が出てきて、子どもの頃に受け取っていた情報の方が正しかったとわかりました。
画報には、広い野原にソ連の戦車が何台も燃えている絵が描かれていました。
それは事実だったのです。
ゼロ戦という名前はまだ知りませんでしたが、シナの上空から米国機もソ連機も一掃したことは知っていました。
やがてアメリカとも戦争が始まりますが、その感覚も子どもなりに理解できました。
だんだん日本が首を絞められていると感じていました。
当時、ABCD包囲網があり、外国は日本に物を売らなくなりました。
中でも困るのは石油です。
私が小学校五年生の時、日本の全権大使がインドネシアで石油交渉をしましたが、失敗しました。
夏休みに入るか入らないかの頃で、子ども心にも目の前が暗くなりました。
飛行機があっても、石油がなければ駄目だということは子どもにでもわかります。
連合艦隊はどうするのだろうと思いました。
小学校五年生でしたが、今の国際関係専攻の大学生より、当時の小学生の方がよほど戦争に敏感でした。
そして十二月八日の真珠湾攻撃の放送があった時、皆、わっと喜びました。
これでほっとした、という感覚でした。
三十年ほど前、文藝春秋『諸君!』で、のちに『WiLL』で「ある編集者のオデッセイ」を連載した堤堯氏が編集長だった頃、同年齢の岡田英弘氏と対談した際、私が「あの時はほっとしたね」と言うと、岡田氏も「そうなんだ」と応じました。
すると堤氏は「えっ」と驚いた。
戦後、真珠湾攻撃で「日本は終わったと思った」と語る人が多かったからでしょう。
最近になって、有名人の日記にも「ほっとした」と書いている人が多かったことがわかってきました。
ずっといじめられ、追い詰められ、日本はどうしようもなくなっていた。
それが当時の私の実感です。
この稿続く。

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