二・二六事件が東條英機を生んだ ― 軍の暴走と「田中上奏文」という幻想

二・二六事件は日本の政治構造を根底から変え、軍の発言力を絶対化させた事件であった。外交的譲歩が反乱を招く恐怖の中で、軍を抑えつつ対米交渉を担える人物として東條英機が選ばれていく過程と、ルーズベルトが信じたとされる「田中上奏文」の影響を描く。
2017-06-13
以下は前章の続きである。
二・二六が東條を生んだ
そして二・二六事件は、これとは比べものにならないほど大きな事件でした。
大物の大臣たちがズラリと殺され、軍の首脳はオロオロするばかりで、これを押さえることができませんでした。
ただ、昭和天皇が「彼らは反乱軍である」と言ってくださったので、軍の幹部も動くことができ、天皇陛下のご発言が出たとビラがまかれたため、青年将校や兵隊たちもおさまったのです。
しかしこれをきっかけに、何でも軍の言うことが通るようになってしまいました。
「そんなことやりますと、また二・二六事件みたいなことが起こりますよ」などと言われると、誰でも怯えます。
そして、止めようがない。
どこから反乱が起こるかもしれないし、兵隊たちは上官の言うことをよく聞きますが、その上官は青年将校です。
一方、シナ事変は終わらない。
ですからどうしてもアメリカやイギリスと手を打たなくてはいけない。
その時は譲歩しなければならない。
しかし、外交的に譲歩したら、ニ・二六事件のようなものがまた起こる可能性が十分にあります。
では、二・二六事件を起こさないで、アメリカと話をつけられるのは誰か。
そこで、皆があの人でなければ駄目だと言ったのが、東條英機です。
東條さんは二・二六事件の時には満洲にいましたが、あの事件の関係者を実に見事に引っ捕らえました。
東條さんは陸軍大学は首席で出ていましたが、それまでは冷や飯を食わされていた。
決して出世コースをスムーズに歩いてきた人ではありません。
閑職につかされたあげく、満洲にやられていたんですが、満洲で腕前が認められてようやく陸軍次官に戻ってきたのです。
ですから、シナ事変のはじめの頃は東條さんは何も関係がない。
日本とアメリカとの交渉では、アメリカは全く譲歩しなかった。
それは、ルーズベルトがまだ大統領になる前に、「田中上奏文」というものを読んだからです。
「田中上奏文」というのは、昭和三年に政友会の会長で陸軍大将であった田中義一という首相が、天皇陛下に出したとされる国策プランです。
そこには、日本は満洲を制圧し、北シナを制圧し、全世界を制圧するというプランが書いてあった。
その文書が世界中に出回ったわけです。
しかし、日本では誰もそんなものは見たことがない。

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