南京大虐殺という「後出しの物語」 ― 記憶と同時代資料が語る不在

昭和十七年当時、極秘とされたミッドウェー敗戦の情報すら民間に漏れていた一方で、南京での「大虐殺」を語る復員兵は一人もいなかった。戦後の東京裁判で突然現れた南京虐殺説と、同時代資料・証言との決定的な断絶を、自身の記憶と読書体験から検証する。

2017-06-13
以下は前章の続きである。
南京大虐殺の嘘
私は昭和十八年に旧制中学に入りましたが、その前年、まだ小学校六年生の時、近所の高等小学校二年生の太田和男くんという男の子が、「日本の航空母艦は加賀も赤城も全部、沈んでいるんだってさ」と言ったんです。
これには私はびっくりして、非常に不愉快だったことを覚えています。
昭和十七年ですから、まだ周りは「勝った、勝った」と言っている時です。
後から考えると、ミッドウェーの敗戦です。
あれは海軍当局が完全に隠していたはずですが、ちゃんと情報が漏れていた。
私の住んでいる辺りは、トップレベルの極秘情報が漏れてくるような場所じゃないにもかかわらずです。
ここでおかしいと思うのが「南京大虐殺」です。
先に述べたように、シナ事変に出征した人たちは、私の周りだけでも何人も帰ってきています。
しかし、誰一人として南京での大虐殺の話などしていません。
これはおかしいですよね。
ミッドウェーの敗戦で航空母艦が沈んだことは海軍は徹底的に隠して、あの時、負傷した人たちは病院から出さなかった。
それでも、情報は漏れてきたんです。
しかし、南京で大虐殺があったなどとは、誰も話していませんでした。
田中正明という東京裁判で南京虐殺の罪で死刑になった松井石根大将の秘書をやっていた方がいます。
この方が、戦後出された本『南京虐殺の虚構 松井大将の日記をめぐって』(日本教文社)の中に、南京の虐殺などなかったと書かれてありました。
それを読んで、やはりなかったのか、それならわかると思ったものです。
当時、南京が陥ちたのは昭和十二年で、日本は景気は悪くないし、物も不足していませんから新聞も雑誌もすごく厚い。
そこには、南京が陥ちた話から戦争の話から詳しいことがたくさん出ています。
南京には日本の新聞記者その他、百人もの報道関係者が行っていますが、誰一人、虐殺などについて報じていません。
それが戦後、東京裁判で突如、南京虐殺の話が出てきた。
東京裁判については進駐軍の報道規制によって絶対に批判できないため、あらゆるマスコミがその通り伝えました。
そして、一般の人は、そんなこをやっていたのか、と思ったのです。
それが田中正明さんの本を読むと、なかったと書いてある。
私は、子どもながらに、南京が陥ちた頃の雑誌をたくさん持っていました。
当時、南京や上海には日本人が自由に行き来できていましたから、写真もたくさん載っている。
これはやはり、なかったのだろうと思っていました。
この稿続く。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください