オープン・シティという国際常識 ― 南京で何が無視されたのか
日本軍は南京入城前に犠牲を最小化するためオープン・シティを勧告していた。奉天、旅順、パリ、北京などの事例を通じ、都市を戦場にしないという国際的軍事常識と、それを無視した側の責任を検証する。
2017-06-14
以下は前章の続きである。
オープン・シティの問題
その後、調べてみると、日本軍は南京入場の前にオープン・シティを勧告しているのです。
抵抗するな、門を開けと、犠牲を最小限に押さえるためにオープン・シティを勧告している。
抵抗すると街が戦場になるからです。
それをシナ軍が無視したことに問題があります。
オープン・シティというのは非常に重要で、日露戦争でも奉天大会戦などと言いますが、奉天で戦争をしているわけじゃありません。
昔の軍隊は礼儀正しいですから、ロシアだって奉天の中で市街戦をやるという発想はない。
すぐ奉天から逃げていくんです。
旅順にしても旅順の要塞戦はありましたが、旅順の街中では戦っていません。
ステッセルがオープン・シティしたからです。
この前の戦争でもドイツ軍が入った時、パリはオープン・シティしました。
だからパリは傷つきませんでした。
その後、連合軍が攻め入った時、ドイツ軍の司令官はパリをオープン・シティしました。
パリは二度、助かったのです。
ただ、ヒトラーは野蛮人ですから、パリなんて焼いてしまえと言いましたが、ドイツ軍の司令官の方が教養があってパリは助かりました。
オープン・シティしなかった例はベルリンです。
戦場になって徹底的に破壊されました。
街の中を戦場にしてはいけないのです。
戦争するなら野原でやってくれ、ということです(笑)。
北京はオープン・シティしました。
ですから、「北京大虐殺」などという話はない。
保定というのは重要な街ですが、これもオープン・シティした。
武漢三鎮もオープン・シティしました。
だから南京もオープン・シティするべきだったんです。
蒋介石は日本の陸軍の教育を受けていますから、するつもりでした。
南京の外には中山陵があります。
ここに孫文の記念碑があります。
その記念碑のある丘に大砲をすえて撃つと、日本軍としては非常に都合がいいのですが、松井大将と孫文は非常に親しかったので、松井大将はそれを禁止しました。
それくらい、日本兵は相手に対して気を遣っていました。
この稿続く。