蒋介石はなぜ「南京大虐殺」を国際連盟に訴えなかったのか

南京攻撃時の誤爆については蒋介石が逐一国際連盟に提訴したにもかかわらず、「南京大虐殺」については一切訴えていない。数百回に及ぶ外国人記者の取材でも言及はなく、東京裁判で初めて登場した経緯と、その背景にあるニュールンベルク裁判との整合性問題を検証する。

2017-06-14
以下は前章の続きである。
それを蒋介石は、いちいち国際連盟に訴えた。
しかし、「南京大虐殺」については一言も訴えていません。
日本が南京を攻める時に軍事施設を爆撃しますが、その時、爆弾がところどころ外れたりします。
それが民家に落ちたりもした。
すると、蒋介石はすかさず、「民家に爆弾が落ちた」と国際連盟に日本を訴えるのです。
日本が意図的に民家に爆弾を落としたわけではありません。
当時の値段で爆弾は一発、五百円です。
二発あれば、田舎なら総二階の家がたちます。
そんな高価なものを、日本がアメリカみたいにばらまけるわけがない。
それを蒋介石は、いちいち国際連盟に訴えた。
しかし、「南京大虐殺」については一言も訴えていません。
当時の南京についての状況は、最近では北村稔先生や東中野修道先生などが非常に詳しく調べていらして、もはや「南京学」と言ってもいいくらいになっています。
東中野先生は、台湾にある国民党政府の秘密文書などに当たっていますが、こういうことがわかってきています。
南京の落城から、蒋介石は漢口に逃げ、その後、重慶に逃げた。
その間、累計何百人もの外国人記者からインタビューを受けています。
その数、三百回です。
その中で、日本軍の虐殺について述べたことは一度もない。
ですから、「南京大虐殺」は東京裁判ではじめて、出てきたのです。
なぜ出てきたかというと、ニュールンベルク裁判に合わせるためです。
ニュールンベルク裁判には、ナチスのユダヤ人虐殺の罪を裁く「人道に対する罪」という項目がありました。
東京裁判においては、それに類似するものがないので、「南京大虐殺」がでっち上げられたのです。
南京が陥ちた頃に、無名の英文の本が出て、日本軍の残虐行為によって三万人くらいのシナ人が死んだと書いてあった。
それは今では誰が書いたかは明らかで、ティンパーリという「マンチェスター・ガーディアン」紙の記者です。
これについても、やはり北村先生や東中野先生が第一級の資料に当たって研究した結果、ティンパーリは蒋介石から金をもらって書いたことが明らかになっています。

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