若冲と私――同じ眼差しで花鳥風月を見るということ

花鳥風月こそが究極の美であり、美は瞬間に宿るという確信。伊藤若冲の特集をきっかけに、自身の感性と人生の記憶、そして京都・錦市場での偶然の符合を重ね合わせながら、美と生の意味を静かに振り返る。

2016-05-14

私は、花鳥風月に勝る美はないと確信している。
同時に、美は瞬間に在る、とも確信している。

瞬間とは、撮影で言えば一瞬のことだ。
桜であれば満開の時。
紅葉であれば最盛期。
これらはすべて、瞬間なのである。

一時期、私がとても熱中していた黒揚羽で言えば、わずか数か月。
鳥たちにしても、人間に比べれば、一瞬の命である。
だからこそ、私は鳥たちに惹かれているのだろう。

先日、NHKが伊藤若冲の特集をしていたので、録画しておいた。
素晴らしかったことは、言うまでもない。
観ているうちに、私は、ふと思った。

若冲と私は、同じ眼差しで、花鳥風月を見ている。

と、同時に、先日知って驚いたことを思い出した。

不幸というものは、人間の数だけ様々なのだと、トルストイが、世界最高の小説である『アンナ・カレーニナ』の冒頭に書いていることは、これまでも何度か触れてきた。
子供の頃から、私は、私だけの、つらい不幸の中にいた。

私が、小学校五年生にして、高校二年、三年の頭脳を授かっていたことは、既述のとおりである。

国を運営すべきエリートとして約束された人生を、私は、自分の不幸から逃れるために、捨てた人間だ。

しかし、捨てること自体も、自然の流れだったと思う。

京都に着いた私が、
「僕には、大学は必要ないな」
と思ったことも、既に書いた。

そうして、様々な職業に就き、生きる糧を稼いでいた二十歳前後の私は、何と、京都の錦市場で、伊藤若冲の生家が在った一画の東角、数軒を隔てた飲食店で、住み込みで働いていたことがあった。
ごく短い期間ではあったが。

先日、本当に久しぶりに錦市場に立ち寄ると、
天井から、「若冲生誕三百年記念」と題された、彼の絵をプリントした幟が、ずっと連なって下がっていた。

彼の生家が、錦市場の西端、京都大丸のそばに在ったことを知り、私は本当に驚いた。

なぜなら、私は、その数軒先の並びの店で、住み込みの店員として暮らしていたからである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください