第2次・第3次会談――竹島駐屯と実力行使が転換点となった日韓交渉

1953年の第2次・第3次日韓会談を扱い、李承晩ラインの深刻化、日本漁船銃撃事件、独島義勇守備隊の竹島駐屯、そして久保田発言に至る交渉の転換を、会談の時系列と具体的事実に基づいて整理する。

◎ 第2次・第3次会談――竹島駐屯と交渉の転換

2016-06-08
以下は前章の続きである。
題字以外の文中強調は私。

第2次会談
第2次会談は1953年4月15日-7月23日に行われた。
しかし、第2次会談直前の日韓関係は険悪化し、1953年1月5日から7日までの非公式訪日のさいの吉田茂と李承晩の直接会談も非常に険悪なものであったとされる。

第2次会談では、韓国は韓国国宝などの目録を提示し、日本は調査中と答弁した。1953年4-7月の非公式会談で広田アジア局第2課長は日本渡来の経緯に種々あり、古く渡来したものもあれば正当な価格で購入したものもあるので、これを網羅的にとりあげることは困難と答弁した。

韓国軍による日本漁船銃撃と竹島上陸
「竹島問題外交交渉史」および「独島義勇守備隊」を参照
また第2次会談と平行して、韓国が一方的に宣言した李承晩ラインの問題も深刻化し、会談直前の1953年2月4日には韓国海軍によって日本の民間の漁船が銃撃され、船長が死亡する第一大邦丸事件が発生した。
また、第2次会談が開始直後の4月20日には韓国の民兵独島義勇守備隊が島根県の竹島に駐屯した。
なお、1953年7月27日には朝鮮戦争が休戦した。

第3次会談
第3次会談は1953年10月6日-10月21日に行われた。
日本側首席代表の外務省参与久保田貫一郎によれば、10月6日の第3次会談以前までは、原則的なことではなく、未払い給料、文化財、水産関係の事案などの事務的な交渉を行ったいたが、第一大邦丸事件や韓国の民兵による竹島上陸などの実力行使を背景に、10月以降の会談では韓国側は既成事実の圧迫の前に全問題を一気に解決しようと図り、事務的なことから本質的な議題へと移ったところ、後に「久保田発言」として知られる10月15日会談での韓国併合などの歴史認識問題にいたった。

1953年10月13日の会談で久保田参与は、日本は戦争中、東南アジア諸国で掠奪や破壊をしその賠償をしようとしているが、韓国で掠奪や破壊をした事実がないので賠償することはない、万一あるなら賠償すると述べた。

この稿続く。

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