憲法をめぐる思考の原点――西部邁が問う国家と主権の本質
月刊誌『正論』10月号に掲載された西部邁の論考は、憲法を成文法としてではなく、歴史と国民精神の連続性から再考する視座を示す。
日本国民のみならず、世界の読者にとっても必読の論文である。
2016-10-08
日本国民全員と世界中の人たちが読まなければならない論文である事は言うまでもない。
以下も月刊誌正論10月号の西部邁氏の連載論文からの抜粋である。
日本国民全員と世界中の人たちが読まなければならない論文である事は言うまでもない。
文中強調は私。
前文略
この老人、まだ大学にいた壮年の頃であったか、「日本語も日本の歴史も日本人の国民感情を知らぬ上に、憲法の専門家でもないアメリカの若者どもが、たとえ二十四人集まったとはいえ、一週間足らずで(アメリカの「独立宣言」を下敷にして)書き散らかした憲法なんか、「俺なら一晩で全部の改正文を書いてみせる、それができなければ日本の知識人として失格である」と豪語した。
するとその場にいた文藝春秋の編集者から、翌日に、さっそく「一晩といわず三晩くらいかけてもよいから憲法全面改正文を書いてくれ」との依頼があった。
実際にそうしてからすでに四半世紀を超えたが、この老人の憲法観はほとんどそのときのままの形で維持されている。
断っておくが日本国憲法にこの男が格別の関心があるというのではないのだ。
彼は、保守派の一人として、成文(制定)法よりも不文(慣習)法としての憲法のほうがよいと考えており、それゆえ改憲論というよりもむしろ廃憲論に味方しているのである。
憲法とは「国民とその政府」の根本規範のことであるから、その根本規範が自国の歴史によって醸成されたものだということさえわきまえていれば、英国がやっているように「憲法的な基本的歴史文書の指定」にとどめて、あとは「万機(議会および言論界での)公論に決すべし」(「五箇条御誓文」)でよいというのが、この男の本心だ。
もっと慎重にいうと、成文制定法によって国家の根本規範を国民の常識として再確認しておくのはかならずしも悪いこととは断定できない。
老人のいいたいのは、明治・大正の煤だらけの書庫から「立憲主義」という用語を取り出してきた現代日本の国家の玄関にぶら下げる前に、「良き憲法の上に立つ」ためにはまず「現憲法の良否」について論じよ、ということにすぎない。
現憲法について解釈しておくと、一つに「主権が国民に存する」(前文第一項)という場合、ソヴリン・パワー(主権)にはソヴリンティ(崇高性)などという超俗的な意味などあるわけもなく、それはただ(国内外の政策についての)「最終決定権」という俗的な権利のことだと解さるべきだ。
そして「国民」とは、「国が歴史の流れの上に成り立つ」のであるからには、「歴史上の総国民」のことだととらえるのがよく、さすれば国民の主権とは「歴史からもたらされる伝統の精神」のことだとするのが真っ当である。
二つに、「平和を愛する諸国民(連合軍)の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」(前文第二項)は、その(「諸国民」の実態たる)連合軍(戦後は「国連」の「安全保障理事会」)の「公正と信義」など信頼に足るものでないからには、日本の「安全と生存」は「国連に配慮しつつも自前の国防力を持つ」ことによってしか確保できない。
ついでにつけ加えておくと、日本が本当に大事とすべきは「自尊と自立」であって、そのための手段として「安全と生存」があるとみなすべきだ。
そうみなければ「奴隷の安全・生存」を排することができないのである。
三つに、「政治道徳の法則は、普遍的」(前文第三項)といわれても、その法則とやらの「個別的」な現れは各国の歴史と国情に依存する。
「憲法は理想を語るものだ」という者もいるが、それは、民主主義が未熟な歴史段階(換言すると専制政治が罷り通っていた時代)でのことにすぎない。
憲法は、「理想と現実のバランス」としてのノーム(規範)を国家に与えるもので、「普遍の道徳性を遠くに展望しつつも目前における個別の国家事情を十分に考究する」ことから憲法が生まれる。
この稿続く。