尾崎の意見が常に尊重されていたという衝撃 — 日支和平を潰した中枢の闇
本稿は、尾崎秀実の意見が、近衛内閣および日本政府内部で日支和平問題において常に尊重されていたという証言を軸に、第二次・第三次近衛声明の隠された本質を暴く。
和平に反対する立場の人物が極秘交渉と声明起草に深く関与していた事実は、日本の進路を決定的に歪め、やがてフランクリン・ルーズベルトの対日戦略をも誘発した。
戦後史観を根底から問い直す必読の検証である。
当時の近衛内閣あるいは日本政府部内において、尾崎の意見は日支和平問題でも常に尊重されていたという.
2016-11-09.
私は、この重要と言う以上に重要な論文を読んだ後に、以下の様な事も確信的に思ったのである.
朝日新聞の論説主幹を務めた若宮敬文を私が初めて知ったのは、テレビ朝日の「報道ステーション」にゲストコメンテーターとして登場した時だった.
その表情の異様さと、司会者の質問と全く関係がなかった田中角栄の名前を出した時の異様さが、あまりにも強烈だった.
漏れ聞こえていた朝日新聞の偏向記事の代表者との評が、全く正しい事を確信した.
それほどに表情と言動が異常だったのである.
痴呆症にでもかかっているのかと思わせるほどに.
だが、あの表情は、この章の主題が正しい事を告げていたのではなかろうか.
言うまでもない事だが、この番組とTBSのニュース23は、今はほとんど観ない.
だが昨夜、米国大統領選挙の情報を得ようと久しぶりにニュース23を少し観ただけで、私は本当に呆れた.
沖縄での土人発言について、昨夜も相当な時間を割いて報道していたからである.
私は、TBSと中国の情報機関との関係を、日本国として調査すべき時はとうに来ていると確信する.
若宮敬文について、私が最後に本当に驚かされたのは、中国訪問中に北京のホテルで死んでいるのが発見されたという報道である.
このニュースを聞いた瞬間に、私は、これはただ事ではないと思った.
中国共産党は、毎日新聞の記者だった浅海一男が「百人斬り」という捏造記事について嘘を白状しそうになった時、家族全員を北京に住まわせ、娘を北京大学に入学させた.
そこまでやるのが中国共産党である.
若宮は晩年、自らの言論が広く批判され、極めて居心地の悪い状況にあったようだ.
彼は自伝を書き始めていたか、書こうとしていたのではないか.
それは中国共産党にとって致命的な不都合な真実になり得る.
だから彼は消された.
そう感じた私の推測が、誰に荒唐無稽だと言えるだろうか.
以下は前章の続きである.
「昭和十三年五月(ママ.正しくは七月)高宗武来朝の節、軍人にあらずして面会したるもの左の如し、松本重治、西園寺公一、尾崎秀実、犬養健.
右のうち尾崎は西園寺の友人なるを似て列席したりと陳述し置きたり.
これは影佐中将の迷惑となるべきを恐れたるなり」
当時の尾崎は一民間人に過ぎなかった.
尾崎が朝日新聞を辞めて内閣嘱託となるのは、高宗武らの日本滞在中の昭和十三年七月八日である.
そのような人物が、陸軍主導の中国側密使との極秘交渉に同席していた.
この動きは蒋介石にも秘されていた.
犬養が「西園寺の友人」として尾崎を同席させていた以上、嘱託就任以前から参加していた可能性が高い.
この日付自体に、不祥事を隠蔽しようとする意図すら感じられる.
国の命運を左右する極秘交渉の場に、少なくともソ連のスパイである尾崎の同席を許したのは誰なのか.
しかも犬養は、尾崎が和平に悲観的で、隠然と反対していたと証言している.
それにもかかわらず、当時の近衛内閣あるいは日本政府部内では、尾崎の意見が日支和平問題でも常に尊重されていたという.
この事実にこそ、汪兆銘工作と近衛声明の隠された本質が示されている.
第二次・第三次近衛声明は、第一次声明以上に深刻な意味を持っていた.
そしてこの頃から、フランクリン・ルーズベルトは、日本を追い込み、最初の一発を撃たせて対独戦へ持ち込む構想を描き始めた.
日本はその余力で容易に粉砕できると考えていた.
声明の一か月後、ルーズベルト政権は蒋介石政権に二千五百万ドルの支援を決定した.
翌年一月三十一日には、日本をナチス・ドイツと並ぶ侵略主義国家と断じた.
その後の日米開戦までの日本の動きは、三八年後半に生じた歴史の大きなうねりへの応答に過ぎなかったのである.
この稿続く.