千島列島はなぜ日本領であるべきだったのか。
千島列島と日本列島によってロシア海軍を封じ込める構想は、明治期におけるイギリスの明確な国家戦略だった。樺太・千島交換条約の背景にあった英露対立、榎本武揚の交渉、そしてスターリンが千島列島を「戦利品」と位置づけた理由を通じ、日本の北方領土問題の地政学的本質を明らかにする。
千島列島と日本列島による露海軍の封じ込めは英国の国家戦略だったのだ。
2016-11-26。
以下は前章の続きである。
明治政府に入れ知恵したのは英国だった。
北海道の北東洋上に浮かぶ、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島からなる北方領土、計五千平方キロメートルは、ただの一度も外国の領土になったことはない。
その先にはカムチャツカ半島まで、シュムシュ占守島を北端に千島列島が延びる。
オホーツク海と太平洋を隔てる地政学上の要衝といえるが、なぜ明治政府がサハリン樺太と千島を交換しようと考えたのか。
露が流刑地に指定。
安政二年一八五五年二月、江戸幕府はロシアと日魯通好条約を締結した。
国境を択捉島とウルップ得撫島の間に引き、樺太を日露両国民の混住の地と決めた。
ところがロシアは明治二年一八六九年に樺太を流刑地に一方的に指定した。
以後、樺太へのロシア人の流入が急増し、暴行や窃盗が頻発、殺人事件も起きた。
樺太の日本人居留地を守るため、国境線策定は喫緊の課題だったのだ。
そこで白羽の矢が立ったのが、北海道開拓使を務めていた榎本武揚だった。
北海道事情に詳しく、国際法にも強い。
榎本は渋ったが、黒田清隆は太政官に人事案を提起して榎本を無理やり帰京させ、天皇臨席による閣議で駐露特命全権公使、海軍中将に任命してしまった。
榎本は明治七年一八七四年三月十日に横浜港を出帆し、スエズ運河経由でイタリアに上陸した。
サンクトペテルブルグに到着したのは六月十日だった。
樺太を全て領有したいロシア。
日本も樺太放棄に異存はない。
合致点は見えていたにもかかわらず、交渉は難航した。
ロシア側は、樺太で起きた殺人事件の処分など細々とした懸案を次々と取り上げて引き延ばしを図り、本交渉が始まったのは十一月十四日だった。
その後、日本側の交渉方針がぶれたこともあり、交渉は難航し、日露両国では弱腰外交という批判が渦巻いた。
英国がアドバイス。
ロシアから見ると、広大な樺太を捨て、碁石が並んだような千島列島を欲しがる日本の姿は奇異に映ったかもしれない。
確かに当時の明治政府は脆弱で、樺太を統治する財政的、軍事的余裕はなかった。
だが、それ以上に英国の入れ知恵が大きい。
日本の国力では樺太開発は無理だ。
防衛もできない。
千島列島ならば周囲が海なので防衛しやすい。
樺太をこのまま放置すれば、ロシアの南下は北海道に及ぶ。
ロシアが侵攻してきても千島列島ならば英海軍が援軍を送ることができる。
英国は明治政府の要人に、このようなアドバイスを送り続けた。
その元締は駐日英公使のハリー・パークスだった。
維新の三傑といわれる大久保利通にも直接働きかけたとみられる。
当時の英国は太陽の沈まない国と称される世界一の海軍国家だった。
海洋戦略にたけた英国は、ロシア海軍が将来太平洋に進出することを懸念し、千島列島を日本に領有させることでオホーツク海に封じ込めようと考えたのだ。
ロシアは幕末の万延元年一八六〇年、北京条約で中国から沿海州を奪い、ウラジオストクを軍港にした。
文久元年一八六一年には露軍艦ポサドニック号が対馬浅茅湾に侵入し、島の中心部を占拠した。
艦長ニコライ・ビリリョフは幕府に、対馬の租借、兵営施設建設、食料、遊女を要求した。
結局、英国の仲裁を受け、ポサドニック号は退去したが、英国はこの頃からロシアの太平洋進出に神経をとがらせるようになる。
千島列島と日本列島による露海軍の封じ込めは英国の国家戦略だったのだ。
譲れない戦利品。
ロシア側で千島列島の重要性に気づいたのは、旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンだった。
ロシアは千島列島だけでなく、日露戦争後のポーツマス条約で南樺太までも日本に割譲していた。
露海軍が北太平洋に進出しようとしても、この海域を通過する露艦艇は全て監視され、標的とされてしまう。
米国に対抗する海軍国家建設をもくろんでいたスターリンにとって、千島列島と南樺太の割譲は絶対に譲れぬ戦利品だったのだ。
樺太千島交換条約から七十年後の昭和二十年一九四五年八月十五日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏した。
八月九日に日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻したソ連軍は、一向に戦闘をやめず、領土拡張を続けた。
占守島への侵攻は八月十八日、北方領土を占領したのは、日本が米艦ミズーリ号で降伏文書を調印した九月二日以降だった。
この稿続く。