知り合ってから六十年、一緒に暮らしてから五十年となると、デユアレーション(持続)というものの
2016-12-04。知り合ってから六十年、同居五十年という時間の厚みが生むデユアレーション(持続)の重力を論じ、配偶者の死後も記憶という過去から自由になれない心身の状態、老いの目前に映し出される自己の死、そして「半死者」としての余生を静かに描写する。
知り合ってから六十年、一緒に暮らしてから五十年となると、デユアレーション(持続)というものの
2016-12-04
三つに、知り合ってから六十年、一緒に暮らしてから五十年となると、デユアレーション(持続)というものの振り払いようのない重みが出来上がってしまっていて、それが自分の心身の動きにたいして重力となって作用し、連れ合いが逝ったあとも、その(記憶という形での)過去から自由になれないと思い知らされるのである。
この老人の目前に、後期高齢者だから当然ともいえるが、自分自身の死の姿が映し出されはじめたというふうにいってもよい。
妻に先立たれたいわゆる鰥夫―それは鯰の化け物という中国訛の比喩であろうかーの場合に、誰にでも訪れるに違いない「生と死の混在状態」、つまり「半死者」としての余生がどんなものか。
それについては誰しもが自分で知ることになるに違いないから、ここでその説明に言葉を費やす必要はないであろう。
この稿続く。