新聞の煽動とは逆だった民意。支那事変に倦み、妥協を模索した現実。
隔月誌『歴史通』1月号掲載、長谷川煕氏の論考をもとに、新聞の煽情報道とは逆に、国民と軍部が支那事変の解決を模索していた実相を描く。近衛文麿の決断、クーデター不発の可能性、撤兵・三国同盟・汪兆銘政権処理をめぐる歴史的岐路を検証する。
新聞の煽情報道とは逆に国民は支那事変に倦んでいた。
2016-12-13
以下は隔月誌「歴史通」1月号に掲載された、これぞ本物の論文である、長谷川煕氏の渾身の100枚の続きである。
見出し以外の文中強調は私。
近衛の随員には陸海軍の中枢の実力者がそれぞれ数名ずつ含まれ、その名簿もほぼできていた。
中国からの全面撤兵という世紀のこの日米妥協が成っても、軍一部のクーデターは起きなかったと私は思う。
支那事変の解決はいまや軍部自身が必死に模索していたのだ。
しかし、もしもクーデターが発生したら、昭和天皇は徹底討伐を命じ、2.26事件の時と違って今度は武力で鎮圧したと思う。
新聞の煽情報道とは逆に国民は支那事変に倦んでいた。
殺されるかもしれないとの知己の忠告に対し近衛が「それでもかまわない」と返した話はよく知られている。
仮にも、さらにルーズベルトが、中国からの撤兵に加えて、南京に所在し、その成立に日本側が大きく関わった汪兆銘の国民政府の否認と日独伊三国同盟の死文化を求めてきたらどうだったろうか。
その年の11月26日に米国が日本に提示した有名なハル・ノート(合衆国及び日本国協定の基礎概略)にはこの二点も、中国からの全面撤兵と共に含まれ、これらの米要求を受諾不可能として日本は米英に宣戦し、3年8ヵ月後に敗北した。
私の推定では、中国からの全面撤兵を受け入れた近衛は三国同盟の死文化も承諾し、むしろ死文化どころか破棄するとルーズベルトに伝えたのではないか。
この年の6月22日のドイツのソ連攻撃については、日本の陸軍部内にこの機を逃さずソ連を討つべしとする北進論が噴出した一方、これを機会に三国同盟を破棄せよと唱える上中堅層もいた。
ソ連も含めた四国連合にするのがそもそもの日独伊三国同盟の狙いで、そうした経緯もあって日本は1941年4月13日に日ソ中立条約という一種の友好協約までソ連と結んでいた。
しかし、四国連合どころか独ソ戦となっては、日独伊三国同盟はもはや無効と近衛は考えていたのだろう。
だが、もう一つの、汪兆銘政権の処理は難しい。
この対日協力政権は事実上、日本がつくった。
この政権の要人らを日本政府は無下にはできない。
そこを誤ったら、日本は敵からも相手にされなくなるだろう。
蒋介石の国民政府との平和裡の合体が不可能であれば、近衛は汪兆銘政権要人の日本への亡命を考えたのではないか。
仮に満洲を除いてであろうと、支那全土から日本軍が撤兵すれば汪政権はどのみち存続し得なくなるからだ。
この稿続く。