ルーズベルトの「日本挑発宣言」――大西洋会談が示した開戦への意思。

長谷川煕の論考をもとに、ルーズベルト政権が日本を本格的な挑発対象と定めた転機を検証する。1941年の大西洋会談におけるルーズベルトの発言、対日資産凍結と石油禁輸、そしてハル・ノートに至る過程から、対日開戦誘導の構図を明らかにする。

日本をいつから本格的にこの挑発の対象にしようとルーズベルト政権側が企てたかは諸説あるだろうが、
2016-12-15
以下は長谷川煕氏の渾身の論文の続きである。
文中強調は私。
日本挑発宣言
日本をいつから本格的にこの挑発の対象にしようとルーズベルト政権側が企てたかは諸説あるだろうが、米政権が臍を固めたのは独ソ戦勃発後、それも一九四一年八月九日から十二目までカナダ沿岸の大西洋上の英艦の上でルーズベルトと英首相ウィンストン・チャーチルが大西洋会談を行った時と私はみる。
その会談の記録はなお開示されていないが、漠然とではあってもその中身は、後にチャーチルが旧友の英自治領南アフリカ連邦(当時)の首相ジャン・スマッツに漏らした次の言葉に象徴されるだろう。
「大西洋会談でルーズベルトは『私は決して宣戦はしないかもしれないが、戦争は起こすかもしれない』とまで私に語った」
チャーチルへのルーズベルトの艦上でのこの発言を、ルーズベルトの日本挑発宣言と受け止めてもそう不自然ではないだろう。
これより前の七月二十五日にルーズベルト政権は、在米日本資産の凍結、八月一日には石油輸出全面禁止という日本の経済、生活をやがて麻痺させる措置を発表したが、これは挑発的性格を帯びつつも、東南アジア侵攻の拠点と言える南部仏印へ日本軍が進駐したことへの報復とみなされた。
しかし、思わせ振りな言葉が大統領自身から発されながら、結局はぴしゃりと拒否された近衛・ルーズベルト会談の件が典型例だが、各種の日本側の妥協案も決まって、詰めたやり取りもないままに突き返される、梅雨空のような状況が、八、九、十、十一月と続き、十一月二十六日に遂にあのハル・ノートを渡された。
この稿続く。

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