ハル・ノートは事実上の無条件降伏要求だった。

長谷川煕の論考をもとに、ハル・ノートの内容と交渉経緯を検証する。全面撤兵、汪兆銘政権の否認、三国同盟の死文化という条件が、実質的に日本への無条件降伏要求であったことを明らかにし、近衛内閣の限界と回避不能だった開戦の構図を描く。

ハル・ノートも日本への無条件降伏要求のようなものであった。
2016-12-16
以下は長谷川煕氏の論文の続きである。日本国民全員と世界中の人たちが読むべき、これこそ本物の論文である。
文中強調は私。
それは近衛・クルー会談の所で瞥見したように、
●支那大陸、仏印からの全面撤兵
●日本と協力する汪兆銘政権の否認
●日独伊三国同盟の死文化
と受け取れる、それまでの交渉経緯とは無関係の内容だった。
撤兵先の支那大陸には満洲も含むと理解された。
国務長官ハル自身が、これからはことは自分の手を離れ、陸海軍に移ると陸軍長官に述べるほど、ハル・ノートがいかに挑発的であるかをハルが自ら認めているのである。
稚拙な日本外交
1941年10月16日に近衛が辞めなければ、たとえ辞めても第四次近衛内閣が成立していれば、あのハル・ノートであろうと彼はほぼ丸ごと呑み込んで戦争には訴えず、対枢軸国戦争を欲してやまないルーズベルトないしルーズベルト政権を逆に窮地に追い込んだのではないかと推定してみたくもなるが、この場合、それは不可能であったろう。
アメリカのどこかで首脳会談が41年秋にも実現し、ルーズベルトが、後に出てくるこのハル・ノートにそっくりか、それに近いものを近衛に提示し、ほんの字句的な修正は別として、それをそっくり近衛が受諾して避戦に成功し、日本に開戦させたかった米国をその意味で大敗北させ得たとしても、それは、米大統領と日本首相の巨頭会談という、日米関係史の上で前代未聞の特異な環境の中で、避戦切望の昭和天皇の即時の電報裁可を、内大臣の入れ知恵なども排して直に受けるという、あの時に近衛によって考えられた非常のお膳立ての下でのみ可能だった策略で、日本内地で通常の会議を通す普通の仕組みの中ではそもそもあり得ない対米妥協だっただろう。
実際に終戦の時も、結果的にではあるが、原子爆弾を二つまで落とされ、ソ連の侵略まで始まって後に日本軍の無条件降伏を要求するポツダム宣言を受諾できたのである。
ハル・ノートも日本への無条件降伏要求のようなものであった。
この稿続く。

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