日本という鏡が照らした中国人の国民性—石平論考が示す近代中国の自己認識—

本稿は、2015年10月22日に発信した章をもとに、月刊誌『Voice』掲載のSekihei氏の論考を引用しながら、近代以降の中国にとって日本が「自分自身の姿を見詰めるための一枚の鏡」であったと論じる内容である。
魯迅の『狂人日記』『阿Q正伝』『孔乙己』に描かれた中国社会の残忍さ、卑怯さ、そして「人が人を喰う」精神構造を通して、中国人の国民性がどのように自己認識されてきたかを検討している。
さらに、日本が育てた中国近代最大の啓蒙思想家と文学者が、ともに中国人の「悪しき国民性」を照らし出した事実に注目し、日本が中国にとって最も重要な「他者」であったと位置づける。
中国近代の精神史と日中関係の根底にある意味を考察する一章である。

2019-04-22
つまり、近代以降の中国にとって、隣国の日本こそが「自分自身の姿を見詰めるための一枚の鏡」だったのである。

2015/10/22に発信した章である。
以下は、私が何度か言及してきた優れた月刊誌であるVoiceの今月号、前章でご紹介したSekiheiさんの、大論文の最終回からである。
前章で言及したように、私はこれをサンフランシスコ市の議員たちに贈る。

前文略

返す刀で、何の抵抗力もない一人の若い尼さんを徹底的に侮辱する。
そうすることで自分自身の受けた屈辱を忘れて良い気分になるのである。
そして「酒屋の連中」も、阿Qが弱い者を虐める光景を楽しみ、笑い声をもってそれを奨励する。
こうしたなかで「手柄を賞賛された」阿Qは、よりいっそう意気高揚して、弱い者虐めに励む。
結果的には、この村社会で一番弱い立場の尼さんの「半泣き」と引き換えに、村人と阿Qは、それぞれ「九分」と「十分」の満足感を味わって愉快になったのである。
「孔乙己」で見られたような「人が人を喰う」場面が、ここでも繰り広げられている。
われわれが再び見せつけられるのは、村人と阿Qの心の中に深く根付いている「情けないほどの卑怯さ」と、「恐ろしいほどの残忍さ」である。

中国人が自己認識を深めた「重要なる他者」とは

魯迅が「孔乙己」や「阿Q正伝」において「卑怯にして残忍な人間精神」の持ち主として描いたのは、「社会の異端」としてのごろつきや一部の権力者ではなく、普通の労働者や村人であった点は、とくに注目すべきであろう。
つまり魯迅から見れば、卑怯にして残忍なのは、一部の特別な中国人だけではないということだ。
中国の一般民衆、すなわち中国国民の精神構造の深いところに巣食う、中国人の国民性そのものなのである。
魯迅が作り上げた「阿Q」という人物像は、そういう意味では、まさに中国人の国民性のシンボルである。
アルファベットが入った名前は、もちろん当時の中国人にはありえない名前だ。
魯迅が阿Qにあえてこのような名前を付けた最大の理由は、要するに、彼のことを一人の具体的な人間としてではなく、むしろ中国人の国民性を一身に背負うシンボル的な存在として描こうとしたからであろう。
つまり、あの卑怯にして残忍な阿Qは、すなわち中国人そのものであり、「阿Q」という架空の名前は、すなわち中国人の代名詞なのである。

今回取り上げた魯迅の三つの作品のうち、とくに「狂人日記」と「阿Q正伝」が彼の代表作であることは、日中両国の「魯迅研究」における共通認識であろう。
さらにいえば、「魯迅」に関する世の中の常識ともなっているとすらいえる。
ということはつまり、「人が人を喰う」中国社会の体質と、その背後に潜む「卑怯で残忍な」中国人の国民性に洞察のメスを入れて、白日の下に晒したことこそが、中国の近代文学を代表する魯迅という作家の生涯の最大の仕事であり、その最大の功績だと、多くの人びとが認識しているということでもあろう。

以下は…
この二人とも、日本人という「他者」との対比において自国民の国民性を発見したわけだが、
の続きである。

そして、じつはそれはまた、日本生活歴が28年目になる私自身が認識している日本人、大半の日本人、の美質なのである。
とにもかくにも、日本が育てた中国近代最大の啓蒙思想家と、日本の育てた中国近代最大の文学者が、一致して中国人の「悪しき国民性」に光を当てたことは、非常に深い意味をもっている。
つまり、近代以降の中国にとって、隣国の日本こそが「自分自身の姿を見詰めるための一枚の鏡」だったのである。
もう少し哲学的な言い方をするならば、日本こそが、中国人が自己認識を深めるときの「重要な他者」だったのである。

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