5・4運動の核心とは何だったのか―日支反目を生み出した米外交の初勝利―

高山正之の論考を通して、日清戦争後に芽生えた日支連携の可能性と、それを断ち切った米外交の構図を描く。
5・4運動は単なる愛国運動ではなく、日支反目を生み出した米国の外交的勝利でもあった。
本稿は、留学生政策、袁世凱、対華21か条、パリ講和会議を通じて、その歴史の転換点を鋭く照らし出す。

2019-05-31
日支反目を生み出した米外交の初勝利の日というべきだ。
その米国が今は支那を潰しに掛かる。
外交の妙というか。

以下は一昨日発売された週刊新潮に掲載された高山正之の名物コラムからである。
高山正之は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストであるとの私の評が全く正鵠を射ている事を今週も見事に証明している論文である。

変われない民

漢民族の棲み処はあの万里の長城の内側と決まった風に言われる。
しかし長城自体が大したものじゃない。
見掛け倒しで誰でも越えられる。
マイクロソフトがPC立ち上げ用のOSを入れる際に他社のソフトを盗んでいるという疑惑があった。
いやいや我が社は部門ごとに高い仕切りをして盗めないようにしていますとビル・ゲイツが言い訳した。
新聞は「ビルのLong Wall」と嗤った。
境にもならないほどの意味だ。
実物も似たようなもので、5世紀ごろには北や西から鮮卑、羯、匈奴らが漢人の領土にどんどん入り込んで棲み付いた。
世にいう五胡十六国時代だ。
鮮卑とか匈奴とかは漢人が蛮夷を見下してつけたふざけた名だが、その蛮夷から見た漢人はどうだったか。
華僑の専門家、長崎大教授の須山卓によると、あまり行儀がよくない。
素行も悪く、すぐ乱暴狼藉に至る。
よって以後、悪い者を見ると、まるで漢人みたいではないかという意味で、悪漢とか痴漢、無頼漢、大食漢と呼ぶようになったという。
習近平は「偉大なる漢民族の復興」とか言う。
偉大だったかどうかはともかく、悪漢、痴漢、無頼漢は今も説得力があるように思う。
習近平もまず、鮮卑や匈奴から蔑まれない民度を考えてほしいものだ。

ただ、そんな支那人でも、あるとき、多くの若者が国をよくしよう、いい民になろうと、いいところまでいったことがある。
それは日清戦争のあとのことだ。
満洲民族王朝の清は、日本に敗れたことの意味を真剣に考え、まず漢人の学問、四書五経をやめて、日本人がやったように洋学を志してみた。
それで京師大学堂、後の北京大学を建て、海外留学を奨励した。
留学先で多かったのは昨日の敵、日本。
満洲王朝の度量の大きさが分かる。
日本側もすぐに各大学が積極的に支那人留学生を受け入れた。
かくて魯迅も周恩来も秋瑾も陳独秀もと、年に1万もの若者が日本で学んだ。
彼らはそこで世界を知り、国に帰って秋瑾は女性解放運動に勤しみ、陳独秀、宋教仁は議会制を叫んだ。
そして実際、それは実った。
辛亥革命のあと支那初めての選挙が行われ、議会が開かれた。
議員の半数は日本留学組だった。
無頼漢でしかなかった支那人が純粋に国を憂え、燃え上がった瞬間だった。
これは奇観だった。
片や欧州まで蹂躙したフビライの国。
片や世界最強のロシア陸海軍を粉砕した新興国。
それが互いに手を握ろうという。
「日支が提携すれば白人国家がアジアに持つ権益を危うくする」と、駐北京独公使フォン・グレイルが今そこにある黄禍を伝えた。
米国も思いは同じ。
日支提携を阻むには、まず日本に向かう留学生の足を止めるに如くはない。
米国は清華大を建てて、顎足つきで米国留学を誘った。
義和団の乱の賠償金がその費用に充てられた。
反日の急先鋒となる顧維鈞は日露戦争のあとすぐに渡米し、以下、胡適、董顕光、王寵恵、伍廷芳が続いた。
その中に11歳の宋美齢も含まれていた。

あれほど緊密に見えた日支連携は袁世凱のときに暗転した。
米国に買われた袁は日本色の強い議会を解散し、燃え上がった漢人の思いに水をかけた。
一方で米外交官の指導の下、満洲権益の延長申請にすぎなかった対支21か条を政治問題化し、日本を支那人の敵に仕立てた。
米国はパリ会議で発言権もない支那代表に日本批判の長広舌を振るわせた。
ジャーナリスト董顕光は反日を煽り、顧維鈞と米公使ポール・ラインシュが学生を焚きつけ、それが5・4運動になった。
日支の関係は米国の思惑通り180度転換した。
あれから100年後の今年、習近平は「5・4運動の核心は漢人の愛国主義」と言った。
それは違う。
日支反目を生み出した米外交の初勝利の日というべきだ。
その米国が今は支那を潰しに掛かる。
外交の妙というか。

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