佐藤栄作は正力松太郎の反対を押し切ってNHKにテレビ放送免許を与えた。—占領軍の弱体化計画とNHKの生き残り戦略—
2019年6月28日執筆。
本稿は、占領軍によるNHKの民主化と弱体化計画、その中で進められた放送法制定と民間放送との並立体制、さらにテレビ放送をめぐる日本政府とNHKの動きを論じる。
吉田茂による電波監理委員会の廃止、佐藤栄作電気通信大臣によるNHKへの放送免許付与、そして正力松太郎との対立を通して、戦後放送体制の成立過程とNHKの政治的立ち回りを描いた文章である。
2019-06-28
吉田学校の優等生である佐藤栄作電気通信大臣が日本テレビ(正式名称日本テレビ放送網株式会社)の開設を準備している正力松太郎の反対を押し切って、NHKにテレビの放送免許を与えた。
以下は前章の続きである。
NHKの弱体化計画。
占領軍はNHKを民主化するために、政府および情報局から切り離して独立の機関(といってもGHQの広報機関)とした。
そして、放送委員会を設置させて、名目上ではあるが、NHKの「運営」をこの委員会に委ねた。
17名の委員の中には宮本百合子(宮本顕治の妻、荒畑寒村(社会主義運動家、加藤シズエ(日本社会党衆議院議員、島上善五郎(東京交通労働組合書記長、横ゆう子(日本共産党婦人部員)がいた。
そして、5大改造(改革はアメリカ側のプロパガンダなので、私は改造と呼ぶ)の一環として、NHKにも労働組合をつくらせた。
この組合は朝鮮戦争の際に、占領軍が119人もパージしなければならないほど急進的左翼集団となった。
朝日新聞や毎日新聞、映画会社やニュース映画会社(日本映画社など)の労働者(経営者ではない)がWGIPに唯々諾々と協力したのも、労働組合が結成され、過激化し、彼らが突き上げ、攻撃するターゲットが経営側・戦中の旧体制となっていたからだ。
つまり、命じられなくても、彼らは経営側・戦中の旧体制をつるし上げ、非難する心理になっていた。
これは、パージされたのち元NHK職員が入り込んだ民間放送局にも言える。
これらの放送局は1951年以降開局しているので、時期から言ってWGIPに加わっていないが、これをなぞるような反軍国・反旧体制の番組をつくり、報道姿勢をとるようになっていく。
6月令和特大号の「NHKと受信料の奇怪」でも述べたように、自分がしたこととはいえ、あまりにもNHKが左傾化したので、占領も2年目が過ぎると、CIEはNHKの廃止を模索し始めた。
だが、占領が終わるまでは利用しなければならないこともあり、CCSと連携して廃止ではなく弱体化を計画した。
その方策の一部がNHKと民間放送の並立体制を規定した放送法の制定だった。
これは、まだ存在していない民間放送を規定し、民間事業体がそこに参入できるよう法整備をするのが主な狙いだ。
そして、テレビ放送を民間放送にだけ許し、NHKは排除しようとした。
そこで、NHKは、かつて軍部からCIEに乗り換えたように、今度は日本政府に乗り換える。
その働きかけのなかで、当時の首相吉田茂は、NHKにテレビの放送免許を出そうとしない電波監理委員会(CIEがつくらせた政府から独立した機関)をサンフランシスコ条約が発効し、日本が独立を回復した1952年に廃止した。
さらに、吉田学校の優等生である佐藤栄作電気通信大臣が日本テレビ(正式名称日本テレビ放送網株式会社)の開設を準備している正力松太郎の反対を押し切って、NHKにテレビの放送免許を与えた。
この間、CCSやCIEの将校にしたような「接待」を政府関係者にしたのかどうか、結果として、NHKは正力を出し抜いてテレビ日本初放送の栄誉に輝くことができた。
この稿続く。