ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶

スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。
2018年07月17日
以下は日本国民が読むべし月刊誌の一つであるVoice今月号に「ヤルタの不正義をいまこそ正せ、今日のアジアの混乱の元凶」、と題して掲載されている中西輝政(京都大学名誉教授)と渡辺惣樹(日米近現代史研究家)の対談特集からである。
歴史を学んでいる学生を含む日本人全員と世界中の人たちが読むべき特集である。

スターリンとの愚かな「同衾」
渡辺 
1945年2月、ソビエト領のクリミア半島ヤルタでフランクリン・D・ルーズベルト、ウィンストン・チャーチル、J・スターリンの三巨頭による会談が行なわれました(ヤルタ会談)。
秘密協定として「ソビエトがドイツ人捕虜を強制労働に就かせること」や「千島列島および南樺太、満洲における諸権益のソビエトへの割譲」が交わされました。
秘密合意の内容がアメリカ国民に明らかにされたのは翌46年2月のことで、『二ユーヨーク・ワールド・テレグラム』紙は次のように政府を批判しました。
「合衆国はジャップとの戦いに参加させるために、ロシアを賄賂で釣るようなことをしてしまった。まったく不要なことであった。こんなに意味のない賄賂が、これまでにあっただろうか」。  
中西 
ヤルタ密約の不正義については、じつはチャーチル首相もよくわかっていました。
終戦から約半年後の1946年2月、密約の公表直前に英外務省が全在外公館に宛てた公電のなかで、ルーズベルト大統領の千島列島や北方領土を含む日本領土のソ連への移転を約束した署名がアメリカの大統領権限を越えていること、とくに、この協定に対する米議会の批准もない状況下でのヤルタ協定の有効性について深い疑念を示しています。
つまり英政府は当初から、ヤルタ密約の法的な有効性に疑問を抱いていました。
しかしチャーチルはそれを知りつつ、ルーズベルトとの関係を円滑にするため自国の内閣にすら知らせずに署名したのですから、米英とも道義的に見てたいへん大きな問題があったといえるでしょう。  
二十世紀の初頭から、チャーチルらイギリスのエリートは大英帝国の失墜に深刻な懸念を抱きはじめます。
そのなかから生まれてきた潮流の一つが、アメリカを抱き込んでイギリスの覇権を維持しようとする「アングロ・サクソニズム」でした。
しかし、それは大英帝国がパクス・アメリカーナ(アメリカによる支配)に吸収されていく過程でもあった。
つまりミイラ取りがミイラになったわけで、アメリカをうまく取り込もうとした大英帝国が逆にアメリカによって潰されたというのが、二十世紀の二つの大戦における世界史的な意義だといえます。
そしてヤルタ会談はまさに「イギリスの落日」の最後の歴史的瞬間であった、と私は思います。 
渡辺 
ヤルタ会談から約1年後の1946年3月、チャーチルは「鉄のカーテン」演説において「西側民主主義国家、とりわけイギリスとアメリカは、際限なく力と思想の拡散を続けるソビエトの動きを抑制しなくてはならない」と述べていますが、スターリンとの「同衾」がどんな結果をもたらすかについて、大戦前からわかりきっていた英国保守派からすれば「いまごろ気付いたのか、馬鹿野郎」と思ったにちがいありません(笑)。 
中西 
ルーズベルトは(ヨシフ=ジョゼフ・)スターリンに対し、親しみを込めて「アンクル・ジョー(ジョー叔父さん)」と呼んでいました。
しかし、これはあくまでもアメリカ国民にソビエトとの友好をアピールする演出にすぎず、アメリカの支配層はソビエトへの警戒を決して解いてはいなかった。  
では、ヤルタ会談におけるルーズベルトのスターリンに対する異常なまでの譲歩をどう説明したらよいのか。 
ときどき日本の保守論壇で「ルーズベルトは共産主義者に洗脳されていた」という論調を見かけますが、事はそれほど単純な話ではないでしょう。
チャーチルやスターリンほど教養はなかったが、アメリカの世界覇権をめざして第二次大戦への参戦を推進していった手腕など、戦略家としてみれば、ルーズベルトの能力はやはり一級だったと思います。 
渡辺 
そもそも、ルーズベルトは共産主義関連の本を読んだ形跡がいっさいない。
おそらくマルクスやレーニンの基本文献すら目を通したことがないでしょう。
無教養なのに「結果としては一流の戦略家」と思わざるをえないところがルーズベルト解釈の難しさでしょう。 
中西 
共産主義関連の本を熱心に読んでいたのは、むしろ「赤いファースト・レデイ」と仇名された夫人のエレノア・ルーズべルトのほうですね。 
渡辺 
私は、ルーズベルトにはスターリンを意のままに操れる自信というか、過信があったのではないか、と見ています。
1943年11~12月、ヤルタ会談と同じ米英ソの三巨頭が集まったテヘラン会談において、ルーズベルトはソビエト大使館に宿泊しました。
CIA(中央情報局)のある論文によれば当時、大使館内の会話は完全に盗聴されており、ルーズベルトの判断がいかに安全保障上、危険で愚かだったかを論じています。
ルーズベルトはソビエトに対し、政権内の情報をまるで「露出狂」のように晒していました。  
しかし、だからこそ私は「ルーズベルトはスターリンの共産スパイによって操られていた」という見方を取りきれないのです。
逆にルーズベルトとしては機密情報をあえて流出させることで、ソビエトを操っているつもりだったのかもしれない。
スターリンに対してあれほど無警戒だったのも、自らが戦略的に有利な立場である、と信じていたからではないでしょうか。 
中西 
結局のところ、ルーズベルトの狙いは大英帝国を潰してアメリカが世界の覇権を握ることにあり、日本やソビエトはそのための駒にすぎなかった。
そして、この狙いは半分成功しアメリカは大戦後、世界の覇権国となった。
冷戦は、そのためのコストだったといえるでしょう。
日本はうまく取り込んだが、ソビエトには思いのほか手こずったということでしょうか。
その意味でも、ルーズベルトがソビエトに操られていたというのはやはり誤りでしょう。 
ルーズベルトの陰険な仕打ち  中西 
また同様に、左派の進歩史観の歴史家が述べるように「ルーズベルト政権はニューディール政策のような社会主義的な政策に親和的であったから、ある種の社会主義へのシンパシーがスターリンに対する対応の甘さにつながった」という見方も誤りです。 そもそもルーズベルトの言動には、アメリカの覇権以外に一つの主義や理念に沿って政策を遂行しようとする、道徳的な誠実さは全然ありませんでした。  1941年8月9日、チャーチルと大西洋上で秘密会談をしたルーズベルトは、すでにはっきりと第二次大戦に参戦する構えで「(英米)両国は(この戦争において)領土の拡大を求めない」「関係国民が自由に表明する希望と一致しない領土的変更を欲しない(民族自決)」という、それ自体が戦争目的の宣言のようなプロパガンダである「大西洋憲章」を発表しました。  同じころ、日本の近衛文麿首相は日米戦争を回避するため、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーを通じてルーズベルトとの日米首脳会談を申し入れていました。 しかし、アメリカはその気がありそうな素振りで回答をずるずる引き延ばしたうえ、近衛の申し入れを蹴飛ばしてしまった。 じつはそのあいだにチャーチルと、先の大西洋会談をしていたわけです。  この一件を含め、1941年の日米交渉全体においてアメリカは日本に対してたいへん不誠実な、ほとんど欺瞞的といえるような外交対応を繰り返しました。 そして挙げ句の果てに突き付けたのが、あの高圧的な最後通牒の「ハル・ノート」です。 ルーズベルトの日本に対する陰険な仕打ちを戦後日本の歴史家はなぜ指摘しないのか、私には不思議でなりません。  渡辺 
現在、私はジョージタウン大学歴史学部のチャールズ・タンシル教授の『Back Door to War』Jの翻訳を進めています(『裏口からの参戦‥ルーズベルト外交の正体1933-1941』今秋、草思社より上梓予定)。 本書によれば、近衛首相はルーズベルトに会談を申し入れた際、「メディアに口外しない」という条件を付けたにもかかわらず、ルーズベルト政権が会談要請をリーグしてしまった。 近衛は国内の対米強硬派に悟られないように慎重に交渉を進めたかった。 彼の動きが「バレたら」自身の失脚は間違いない。これをリークしたのは日米首脳会談を潰す意図があったとしか思えません。    中西 
アメリカにしてみれば、昭和十六年春から「ハルノート」までの一連の日米交渉の過程そのものが「フェイク」、つまり対日開戦の準備時間を稼ぐための欺瞞作戦だったわけです。 最初から日本と折り合って戦争を回避しようという考えはルーズベルトにはまったくなかった。
北方領土は「日本対連合国の問題」       渡辺 
また、ヤルタ会談では侵略国家によって奪われた主権と自治の回復を求める声明が出されました。 「侵略国家によって」という但し書きがあるのは、連合国の一員であるソビエトは侵略国家ではない、ソビエトに自由を剥奪された国には適用されない、という理屈です。    ここで焦点となるのは、ポーランドの扱いです。 第二次大戦は、英仏が安全を保障するポーランドの独立をナチス・ドイツが侵したことで始まりました。 当時のロンドンにはポーランド亡命政権があり、イギリスはポーランドの独立を保障していた。 したがって、チャーチルにはポーランド亡命政権を保護する義務があったのです。  一方、ルーズベルトも1944年11月の選挙ではポーランド系有権者の票獲得のため、同国の自由回復を約束します。 ところがヤルタ会談時、すでにポーランドにはソビエトの後押しで共産主義組織ができていました。 さらにあろうことか、チャーチルとルーズベルトはこの状況を追認してしまった。 二人がポーランドのみならず東ヨーロッパの共産化を認めたのは、ソビエトの軍事力の助けがなければナチス・ドイツには勝てなかったことをはっきりと認識していて、強い負い目があったからです。 
中西 
第二次大戦時、太平洋戦線はアメリカの圧倒的な軍事力によって圧せられました。 しかしヨーロッパ戦線においては、ソビエト軍のナチス・ドイツとの4年にわたる死闘と膨大な犠牲なしに連合国の勝利はありえませんでした。 たしかに1944年6月、ノルマンディー上陸作戦後の米英連合軍は、西部戦線を開いてドイツに向けて進撃を開始しますが、その犠牲者数は、それまでの独ソ戦の死者と比べれば、まったく比較にならないほど小さいものです。 ドイツの抗戦能力の大半が対ソ戦、つまり東部戦線に振り向けられていたからです。 渡辺 
第二次大戦で、ソビエトはじつに2,000万人もの死者を出しています。 この犠牲者数の多さは、ルーズベルトやチャーチルにとってもスターリンとの交渉上の「心理的(ンディキャップ)だったことでしょう。 
中西 
世界的なスケールで戦争を見る能力と立場にあった米英のこの二人から見れば、権益の分捕りを目的とする帝国主義戦争としての第二次大戦という本質を踏まえていたから、ソビエトには相応の「取り分」を与えるしかない、とわかっていたはずです。 つまり、ポーランドも東欧も抑圧的な共産体制下に置かれることがわかっていながら、スターリンに「くれてやった」ということです。先の大西洋憲章における「領土不拡大」の方針は、枢軸国あるいは自国民向けのプロパガンダにすぎなかったことは、この点からもわかります。  さらに今日の日本人があらためて振り返るべき点は、ヤルタ密約と北方領土問題との関係です。 アメリカの歴史家は「ルーズベルトは日露和親条約(1855年)や千島・樺太交換条約(1875年)の存在を知らなかった」などと言い訳をしていますが、むろんこれは嘘です。 米国務省はもちろんルーズベルトも、千島列島とくに北方四島が日本固有の領土であることは百も承知で、ソビエトに割譲、つまり連合国全体として征服者の特権である領土拡大を行なったということです。  日本政府は「ロシアに不当に占領されている」として北方領土の返還を要求する根拠として、ルーズベルトとチャーチルの二人が「領土不拡大」を謳った前述の大西洋憲章を柱としている。 しかしヤルタ会談に至る大戦中の米英首脳の動きを詳細に見ていくと、北方領土問題をつくり出しだのは、まさにこの米英二国であることを忘れてはなりません。 言葉を換えれば、北方領土とは日ソ(日露)間の問題でなく、「日本対連合国の問題」なのです。  渡辺 
ご指摘のとおり、現在も日本を苦しめる北方領土問題は、ヤルタ会談におけるルーズベルトとチャーチルの判断の愚かさに起因することは間違いありません。 この問題を解決するには、ヤルタ会談における秘密合意の失敗を認めることが第一歩でしょう。  しかしその認識は、「英米は民主主義を守るために全体主義国と戦った」という従来の大戦史観(釈明史観)の変更をも意味します。 ルーズベルトとチャーチルが進めた外交を懐疑的に見る歴史修正主義が歴史解釈の主流にならなければ、北方領土問題の解決は難しいと考えざるをえません。   中西 
この点で、プーチン政権は「北方領土は第二次大戦における連合国の勝利の結果、ロシア領になった」という発言をしていますが、これはある種の本音というか、歴史的にはより正確な見方で、伝統的な「征服戦争」としての第二次大戦というあの戦争の真の在り方に……沿ったもの、といえるでしょう。 北方領土は国際政治の根本的な規範、つまり正当な「ゲーム・オブ・ルール」 によって日本から奪ったものだから、返す必要などない。なんならアメリカやイギリスの本音を聞いてみよ、と日本人に教えているのです。 アメリカやイギリスも、第二次大戦での戦勝国として戦後、太平洋の島々をはじめ、多くの戦略拠点で実質的な領土拡大をしてきまし た。 この点で「ソ連と同じ穴のムジナ」ということです。   もちろん、わが国としてはあくまでも「法と正義」という原則に則った四島返還の立場を堅持し、敗戦国として、米英ソによる不当な戦後処理への抗議として、返還を訴え続けなければなりません。

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