「お花見国会」に見る日本政治の小児病
2019年11月25日発信の論考。
産経新聞の川村直哉氏の論文をもとに、「桜を見る会」をめぐる国会論戦を、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』と江藤淳の「ごっこ」の世界から読み解く。
拉致問題、北方領土、北朝鮮ミサイル、日米安保など国家の根本問題を議論すべき国会の優先順位を問う。
2019-11-25
当の大統領が考えるきっかけを口にしてくれている。
国家の根本問題を大いに議論すればよいではないか。
以下は、昨日の産経新聞に、みんなでお遊戯しているの?、と題して掲載された論説委員川村直哉の論文からである。
「相手を一敗地に塗れさせてやろうと、実力者たちのあいだではたえず『果し合い』が行なわれている。
しかしそれは、彼らが全き真摯の精神のうちに奉仕する国家の利害関係とは何のかかわりもないものなのだ」。
「小児病」の時代。
オランダの歴史家、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938年)の一節。
「ホモ・ルーデンス」とは「遊ぶ人」の意で、引用は政治における遊び的な要素について触れたくだりのものだ。
特段、否定的な意味で書かれているわけではない。
けれども直前にこの歴史家が、現代のいくつかの現象を「小児病」と呼んでいるのを重ねると、空恐ろしくも読めてしまう。
小児病とは、「粗野なセンセーションの追求、巨大な見せ物に対する喜び」などである。
くどくは書くまい。
モリ・カケから今度はお花見国会か。
これらの問題で、安倍晉三首相ないし周辺の脇が甘かったことは否定できない。
襟を正すべきは正し、気を引き締め直してもらいたい。
だが主要野党のはしゃぎぶりは、言葉は悪いが筆者にはさらに児戯めいて映る。
桜を見る会の問題を取り上げるなというのではない。
国会で論ずべき課題の優先順位を、野党の諸氏はどう考えているのだろうか。
北朝鮮による拉致被害者を日本は取り戻せていない。
北方領土もしかり。
あるいは、進化する北朝鮮のミサイルにどう対応するか。
こうしたことがらは、国会では背景に退いてしまっているようである。
ホイジンガに返るなら、重要な「国家の利害関係」にはさほど関係ない児戯を、わが日本国の国会は延々と続けているように、筆者には思える。
「ごっこ」の世界。
もうひとつ、評論家、江藤淳の「『ごっこ』の世界が終ったとき」(「諸君!」昭和45年1月号)を引く。
鬼ごっこなどの「ごっこ」である。
「現代日本の社会がこの『ごっこ』の世界によく似ているように感じられてならない」。
「『米国』がひとつの現存としてわれわれの上におおいかぶさり、われわれの意識の尖端に附着しているかぎり、日本人はこの『ごっこ』の世界から離脱することができない」。
江藤によると「ごっこ」が成立するには、大人たちが距離を保ち、保護を約束していなければならない。
大人が「本物の鬼」を持ち出したらごっこは成立しなくなる。
江藤がこの「大人」を「米国」と等しくみなしているのは明らかだろう。
実際、そうであると認めなければならない。
北朝鮮の核やミサイルに対するに、日本は米国にすべてではないにせよ多くを頼らざるを得ない。
戦後の安全保障体制そのものがそうなのである。
だが江藤ふうにいえば、この大人は距離を取っている。
「日本はいかにも普通あるいはそれ以上の独立国」(江藤)と考えられている。
その独立国のふるまいに「ごっこ」を見いだした江藤の感覚は、鋭い。
国政の優先課題は。
国会で森友・加計学園問題が騒がれていた一昨年は、北朝鮮が弾道ミサイルの発射や核実験を続けていたときでもあった。
にもかかわらずわが国会はモリだカケだと大騒ぎしていたのである。
繰り返すが議論するなというのではない。
国政の優先課題を考えよ、といっている。
今回のお花見国会は、トランプ米大統領が日米安保条約は不公平だと言い放ってから4ヵ月余りしかたっていない。
大統領は否定したが、条約破棄に言及したとも伝えられた。
これらの問題はその後、国会でどう議論されてきたのだったっけ。
国家は主権、国民、領域から成る。
主権とは国民と領域を自主的に統治する権利である。
拉致被害者も北方領土もいまだに自力で取り戻せない国が真の主権国家であるとは、少なくとも筆者は思わない。
当の大統領が考えるきっかけを口にしてくれている。
国家の根本問題を大いに議論すればよいではないか。
江藤は先の文で、ごっこ遊びから現実の重みが見えてわれに返ったとき、子供はこう歌うのだと書いている。
いーってやろ、いってやろ、せーんせにいってやろ…。
ごっこの幼稚な態度は確かに戯れ歌を呼ぶ。
めーだーかーのがっこうはー、などとだれも歌いたくあるまい。
しかしそう口に出てしまいそうな、この間の国会ではある。
議員諸氏の自覚を促す。
(かわむら なおや)