日本人の文化的退行を示したリクルート事件――記号の支配と空語としての「反権力」
2020年1月19日発信。
故・西部邁氏の著作『マスコミ亡国論』から、マスコミの文化的健忘症、高度情報社会における意味・価値の喪失、記号による支配、そしてリクルート事件を通じて露呈した日本人の文化的退行を論じる。戦後民主主義の常套句である「反権力」が空語として叫ばれ、マスコミと知識人が集団リンチに加担する構造を批判する。
2020-01-19
表現活動において、符号・記号の役割が高まるにつれ、意味・価値がどんどん粗末になり、ついには戦後民主主義の常套文句である「反権力」が空語と知りつつ叫ばれるに至ったのだ
以下は、下記の故・西部邁氏の本「マスコミ亡国論」からである。
活字が読める日本国民は全員、今すぐに最寄りの書店に購読に向かわなければならない。
世界中の人たちは、私の翻訳で、皆さんの国のマスコミも同様である事を知るだろう。
日本人の文化的退行を端的に示した罪
日本人はそのことをなぜ正確に記憶しないのであろうか。
なぜ、こうしたマスコミのいかがわしき来歴を想起しないのであろうか。
こういういわば文化的健忘症にかかっているのに、高度情報社会の到来だなど喧伝するわけにはいかない。
なぜなら、単なる情報ではなく、価値や意味を含んだ情報が重要なのだからである。
意味・価値を含まない情報、それは単なる記号にすぎない。
そして情報がどういう意味なり価値なりをもっているかを知るためには、過去におけるそれらの蓄積に照らして判断するしかない。
われわれは過去にかんする極度の健忘症に陥っているため、目前を通り過ぎていく情報が目立つとか面白いとかいったような、いわば記号的な刹那の刺激だけを期待している。
記号とは意味をもたない符号のことであり、そんなものに反応するのは口ボットであって人間ではない。
現代社会は[記号による支配]つまり「セミオクラシー」の時代に入ったかのような観を呈している。
このことは、日本にかぎらず欧米社会でもいわれている。
意味や価値がどんどん流失して、意味・価値を僅かにしか担わない記号だけが私たちの精神に突き刺さっている。
たしかにセミオクラシーの時代が到来しつつある、といえなくもないだろう。
しかし、私たちにセミオクラシーに身を委ねるという覚悟があるわけでもないのである。
もしその覚悟があるならば、リクルート事件をめぐって、「濡れ手で粟は許さない」といった種類の、小学校のホームルームで取り交わされるような次元の、小児めいた意味・価値をなぜああまで振り回したのであろうか。
[記号の支配]の時代から抜け出ることができないのだというのならば、もっとテクニカルでもっとファンシーな、たとえば複雑なパロディーを駆使した表現の方法だってあったはずだ。
そうした表現能力はわれわれはもっている。
だがわれわれはそうしなかった。
セミオクラシーというのはいってみただけのことであって、本当は、意味の次元や価値の宇宙から離れられないのである。
そうであるのに、われわれは自分たちの頭で、意味・価値を発見し発明するという努力をなおざりにしてきた。
で、古ダンスの古証文をもってきて、「濡れ手で粟は許さない」といったような幼稚な意味・価値のなかに退行したのである。
そういう意味でリクルート事件は、われわれ日本人の文化的退行を端的に示してくれている、おかしいともゆゆしいともいえる大事件なのではあった。
表現活動において、符号・記号の役割が高まるにつれ、意味・価値がどんどん粗末になり、ついには戦後民主主義の常套文句である「反権力」が空語と知りつつ叫ばれるに至ったのだ。
政治家や経営者のように比較的に高い社会的地位に就いているもののいかがわしさとあらば、マスコミ人士および彼らに加担する知識人たちは、自分らのいかがわしいことは棚に上げて、それら権力者を血祭りに挙げようと奔走した。
権力者のいかがわしさは、たとえ既存のルールに収まるものであっても、集団リンチの対象にされた。
そこでみられたのは、反権力をそれ自体として善だとみなす俗流民主主義の感情論である。
おまけに集団リンチの参加者たちは、自分らの生活においては、権力に追従や迎合をたくましくしている連中ときているのだ。
