中国共産党によるモンゴル支配の実相――奇琳花氏とその一族を襲った処刑、文化大革命、強制労働
楊海英のインタビュー特集から、モンゴル女性貴族・奇琳花氏とその一族が中国共産党から受けた迫害を紹介する。母親の拉致監禁、人民解放軍看護婦を使った罠、兄の公開処刑、文化大革命下の拷問と強制労働、夫の不審死を記録する。
2020年9月4日
以下は産経新聞に連載中の静岡大学教授・文化人類学者、楊海英のインタビュー特集からである。
何しろ私は、日本国民のみならず世界中の人たちが必読の論文を紹介することに忙殺されているから、この特集はほとんど読まずにいた。
以下は、有数の読書家である友人が教えてくれた昨日の回からである。
底知れぬ悪と、まことしやかな嘘の国である中国と朝鮮半島は、世界で二つだけの反日教育を行い続けている国である。
彼らが世界で繰り広げている反日プロパガンダである南京大虐殺や従軍慰安婦等の捏造プロパガンダは、全て、彼らが彼らの国民に有史以来行ってきた残虐を、日本軍になすりつけていることを本記事は証明している。
彼らの悪辣な反日プロパガンダを真に受けているのは、朝日新聞等の購読者とNHK等の視聴者、そして彼らと同様な世界中の無知蒙昧だが、似非モラリズムだけは持っている貴方がただけなのである。
悲運のモンゴル女性貴族
《多くのモンゴル人女性からも文化大革命(文革)での体験談を聞いた。特に印象に残っているのはモンゴル貴族出身の奇琳花氏だという》
奇琳花氏はチンギスハンの直系子孫という、内モンゴル・オルドスのなかでも高位なモンゴル貴族の長女として育ちました。
兄は中華民国時代に国民党旗総書記(旗はモンゴルの行政単位)や軍高官を務め、29歳で中国共産党に処刑されるまで、モンゴル民族独立のために奔走した伝説の男性です。
奇琳花氏も中学卒業後に北京の名門校に入学するなど、才色兼備の女性としてモンゴル人男性の憧れの存在でした。
兄妹の青年期、オルドスは中華民国の統治下でありながら共産党ゲリラが跋扈し、「昼は国民党、夜は共産党の天下」という、国共内戦の非常事態になっていました。
《1949年8月、中国共産党の人民解放軍がオルドスに侵攻した。兄妹の運命は暗転する》
中国共産党はオルドスにいた何万人ものモンゴル人を戦わずに支配するため、奇琳花氏の兄の懐柔に乗り出します。
しかし、人民解放軍の粗暴さに危機感を抱いた兄妹は、国民党軍とともに台湾への逃避を決意しました。
ところが、要人の人心戦術はモンゴル人より、中国共産党の方が断然上手です。
すぐさま兄妹の母親を拉致監禁した。
兄妹はフフホト空港から国際便に搭乗する直前、オルドスに戻らざるを得なくなったのです。
こうしてモンゴル人をまんまと支配下に入れた共産党は、51年6月、奇琳花氏の兄に「国民党の女スパイと接触した」罪などをかぶせ、公開処刑にしました。
奇琳花氏の調べでは、兄は共産党に招待された北京のダンスホールで女性と踊っただけで、女性も中国共産党が送り込んだ人民解放軍の看護婦だったとのことです。
奇琳花氏は「兄は舌にようじを刺されたうえ、口にタオルを詰め込まされ、抗議できない状態で処刑場に連行されました」と話していました。
兄の処刑後、恋人であるモンゴル人の共産党高級幹部と結婚した奇琳花氏ですが、今度は66年から始まった文革が若い夫婦に襲い掛かります。
夫の上司である内モンゴル自治区政府主席が「国家を分裂する危険な民族分裂主義者」とされて失脚し、夫も収監されたのです。
奇琳花氏にも危害は及び、文革を推進する「造反派」の共産党員たちから、夫と自分が「主席を支える黒いラインにいる」と自白するよう強要されました。
否認を続けた奇琳花氏は制裁場所に行くよう命じられ、集団暴行を受け、髪の毛までむしり取られました。
制裁後の強制労働では逃亡しないように毎晩、肩を脱臼させられ、朝には肩を戻して労働に駆り立てられた。
お正月の食事には毎年、豚の餌が出され、漢人の看守から「モンゴル人民族分裂主義者は豚より下劣」と言われたといいます。
《文革が終わり、奇琳花氏は強制労働から解放された。夫も名誉を回復されて高級幹部に返り咲いたが、惨劇は終わりではなかった》
奇琳花氏の夫は、国会にあたる全国人民代表大会で「社会主義の法制度の完備」の担当になりました。
トップは文革で打倒された彭真で、文革の混乱の反省から、共産党の論理でなく、法の論理で政策を進めるための社会整備が目標でした。
この理想を進めた奇琳花氏の夫は、少数民族自治区の行政に関する草案をめぐって漢人幹部たちと対立します。
「自治区の行政も漢人中心で」という漢人幹部と激論を重ねるなか、法案審議の日に強制的に入院させられ、そのまま帰らぬ人となりました。
「毒殺された」との見方が一般的です。
(聞き手 大野正利)