一夜の名演を一夜で終わらせてはならない――尾高忠明、大阪フィル、ベンジャミン・グローヴナーが刻んだ歴史的なラフマニノフ
2026年10月1日、ザ・シンフォニーホールで、大阪フィルハーモニー交響楽団による特別演奏会「ラフマニノフ・チクルス~永遠の浪漫~Ⅲ」を聴いた。
指揮は、大阪フィル音楽監督の尾高忠明。
ピアノ独奏は、ベンジャミン・グローヴナー。
前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18、後半は交響曲第3番 イ短調 作品44だった。
ソリスト・アンコールは、リヒャルト・シュトラウスの歌曲《明日!》作品27-4を、マックス・レーガーがピアノ独奏用に編曲した作品だった。
この夜に演奏されたすべてが歴史的名演だったと言って、全く過言ではない。
私の席は、中央の前列だった。
演奏家の表情や動きまで直接伝わってくる席である一方、ピアノとオーケストラ全体の響きを最良の均衡で聴くという点では、必ずしも最適な場所ではなかった。
それにもかかわらず、この日の演奏は、その音響上の不利を苦もなく消し去った。
音楽そのものの力が、座席による条件を超えて、私の眼前に一つの巨大な世界を出現させたのである。
昨年だったと記憶しているが、私は初めて大阪フィルをコンサートホールで聴いた。
その瞬間、弦楽器の音が実に美しいオーケストラだと感じた。
それは単に滑らかで整っているという意味ではない。
音の内部に温度があり、歌があり、長い時間をかけて培われた重みがあった。
しかし、大阪フィルの素晴らしさは、ヴァイオリンだけではない。
チェロ奏者たちが、また実に素晴らしいのである。
大阪フィルのチェロは、音楽の土台を支えるだけの低音楽器ではない。
深く、温かく、時には人間の声以上に雄弁に歌い、音楽の中心から聴く者の胸へ直接届いてくる。
特にラフマニノフの音楽において、チェロは郷愁、愛、喪失、そして言葉にならない祈りを担う、最も重要な声の一つである。
一人一人の音が豊かでありながら、チェロ・セクション全体が一つの巨大な楽器のように呼吸し、歌っていた。
艶やかなヴァイオリン、雄弁なヴィオラ、深く歌うチェロ、そして音楽に強固な大地を与えるコントラバス。
この弦楽器群だけでも、大阪フィルが世界有数のオーケストラであることは明らかである。
しかし、その素晴らしさは弦楽器だけにとどまらない。
フルートをはじめとする木管楽器の奏者たちは、一人一人が明確な音楽的意志を持ち、独奏者のような存在感と、オーケストラ全体に溶け込む繊細さを兼ね備えている。
フルートの音は、時に一筋の光のようにオーケストラの上空へ立ち上がり、時に人間の声のような温かさで音楽の内面を語った。
オーボエ、クラリネット、ファゴットも、それぞれの音色を鮮明に保ちながら、一つの大きな呼吸を形成していた。
ホルン、トランペット、トロンボーンをはじめとする金管楽器群にも、単なる音量や迫力とは異なる気品がある。
力強く鳴らすべき場面ではホール全体を揺るがすほどのエネルギーを放ちながら、歌うべき場面では弦楽器や木管楽器を包み込むような柔らかな響きを生み出す。
ハープは単なる装飾ではなく、音楽の色彩と空間を変える重要な光として輝いていた。
打楽器群も、作品の輪郭を強調するだけの存在ではなかった。
一撃、一響きによって音楽の時間を動かし、オーケストラ全体の生命を決定的に燃え上がらせていた。
ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、木管、金管、ハープ、打楽器。
そのすべての部門に優れた奏者がそろい、しかも個々の技量が一つの音楽へと結晶している。
大阪フィルは、一部の名手だけによって支えられているオーケストラではない。
オーケストラ全体が巨大な一人の演奏家のように呼吸し、歌い、時には咆哮する。
私は、このオーケストラは世界有数の存在であると直ちに感じたのである。
10月1日の演奏は、その最初の印象が決して誤りではなかったことを、改めて証明した。
前半のラフマニノフ《ピアノ協奏曲第2番》で、ベンジャミン・グローヴナーは、技巧を見せつけるためにこの作品を弾いたのではなかった。
一音一音がオーケストラの呼吸の中に入り、ピアノと管弦楽が対立するのではなく、一つの巨大な生命体として息づいていた。
尾高忠明の指揮は、作品の激情を煽り立てるのではなく、その内部から自然に立ち上がらせた。
大阪フィルの豊かな低弦、艶やかなヴァイオリン、深く歌うヴィオラとチェロ、明澄なフルートと木管、気品と力を兼ね備えた金管、そしてハープと打楽器が生み出す色彩と脈動が、グローヴナーのピアノを包み込み、支え、時にその響きを遥かな高みへと押し上げた。
協奏曲が終わった後、グローヴナーが弾いたリヒャルト・シュトラウスの《明日!》は、聴衆全員の心に届いたはずである。
華美なものは何もなかった。
誇示も、作為もなかった。
ただ静かに、「明日」という言葉が持つ希望、愛、別れ、祈りが、柔らかな音となってホールを満たしていった。
大曲の後に置かれた、この短く静かな音楽によって、会場の空気は一変した。
それはアンコールという付属物ではなく、この夜の中心に刻まれた、もう一つの歴史的な演奏だった。
後半のラフマニノフ《交響曲第3番》もまた、大阪フィルの素晴らしさを余すところなく発揮した名演だった。
この交響曲には、祖国を失った作曲家の記憶と郷愁がある。
しかし、そこにあるのは感傷だけではない。
鋭いリズム、自在な色彩、突然開ける光、そして過去を振り返りながらも前へ進もうとする強靱な意志がある。
尾高忠明は、それらを一つずつ説明するように並べるのではなく、大きな呼吸の中で一つの必然として結び合わせた。
大阪フィルは、その呼吸に全身で応えた。
交響曲第3番の演奏が始まって間もなく、私には、ラフマニノフが明らかに歌曲として歌わせるために書いたのだと感じられるフレーズが現れた。
ヴィオラとチェロが、その旋律を深く、豊かに歌い始めた。
その瞬間、私の体も自然に歌い始めたのである。
頭の中だけで旋律を追ったのではない。
腹の底から息が生まれ、ヴィオラとチェロの響きに重なり、私自身がオーケストラと一緒に歌っていた。
初めて聴く曲であったにもかかわらず、旋律も、音程も、呼吸も、弦楽器群と完全に一致していた。
私は伊達に、北新地で長い年月、豪邸が数軒建つほどのお金を費やし、ピアノ伴奏で歌い続けてきたわけではなかったのである。
もちろん、前後左右の聴衆に迷惑をかけるような音量ではない。
周囲にはほとんど聞こえないほどの、しかし私の体の内部では確実に鳴り響いている声だった。
前後左右の人々に迷惑をかけることは、つゆほどもなかった。
もし周囲の人が気づいたとすれば、迷惑に感じるのではなく、初めて聴く交響曲を、どうしてこの人はヴィオラとチェロと完全に一致して歌えるのかと驚嘆したはずである。
私が意識して歌い始めたのではない。
大阪フィルのヴィオラとチェロが、私の中に長年蓄積されていた歌を呼び覚ましたのである。
作曲家が音符の中に封じ込めた歌を、尾高忠明と大阪フィルが解き放ち、その歌を受け取った私の体が、自ら楽器となって応えたのである。
これこそが、生演奏だけが起こすことのできる奇跡である。
ヴァイオリンの艶やかな響きと、ヴィオラの雄弁な中声部。
そして何より、チェロ奏者たちの深く温かな歌が、ラフマニノフの郷愁と祈りを、聴衆の胸へ直接届けていた。
この日のチェロは、単に低音部を支えていたのではない。
ある時は人間の声のように歌い、ある時は作品の内側に秘められた感情を引き受け、交響曲全体の魂とも呼ぶべき役割を果たしていた。
その下では、コントラバスが揺るぎない大地を築いていた。
その上をフルートが光のように飛翔し、オーボエ、クラリネット、ファゴットが作品の陰影と郷愁を描き出した。
ホルンは遠い記憶を呼び覚ますように歌い、トランペットとトロンボーンは、音楽が頂点へ向かう瞬間に堂々たる力を与えた。
ハープは響きの奥に光を差し込み、打楽器は作品全体の脈拍となって音楽を前進させた。
どの楽器も単独で自己を誇示することなく、それでいて一つ一つの音には奏者の人格と意志があった。
全員が一つの巨大な音楽のために演奏していた。
それこそが、偉大なオーケストラの条件である。
全曲が終わった瞬間、満場から大きな拍手が湧き起こった。
拍手は容易には鳴り止まなかった。
聴衆は、自分たちが特別な演奏を聴いたことを知っていたのである。
本当に素晴らしい夜だった。
私は世界の音楽愛好家に伝えたい。
大阪フィルハーモニー交響楽団は、弦楽器だけが美しいオーケストラではない。
艶やかなヴァイオリン、雄弁なヴィオラ、深く歌うチェロ、揺るぎないコントラバス。
フルートをはじめとする木管、輝かしく気品のある金管、音楽に光を与えるハープ、生命の鼓動を生み出す打楽器。
そのすべてが素晴らしい。
各部門に世界的水準の奏者を擁しながら、全員が一つの音楽のために呼吸する、世界有数のオーケストラである。
しかし私は同時に、いつものように、このような歴史的名演を速やかに世界へ届けることのできない日本の現状について考えずにはいられなかった。
有料配信でよいのである。
適正な対価を払い、演奏家とオーケストラとホールに利益が還元される仕組みにすればよい。
今はネットの時代である。
適切な収録と配信環境が整えば、その音質はCDを通して聴くより優れていると言っても、全く過言ではない。
少なくとも、CDという物体を製造し、在庫を抱え、流通させるまで何か月も待つ必要はない。
演奏会の翌日、あるいは数日後に、世界中の聴衆へ届けることが可能な時代なのである。
それなのに、日本では、歴史的な演奏がその夜の会場にいた人々の記憶だけに閉じ込められ、やがて消えていく。
これほど大きな文化的損失があるだろうか。
私は今もCDだけを音楽流通の中心に据えようとする発想を理解できない。
問題はCDを愛好する人々ではない。
CDが完成するまで何も世に出せないという、前世紀の仕組みを変えようとしない側の怠慢である。
著作権や契約、収録費用などの問題があることは分かる。
しかし、それらは解決すべき課題であって、名演を沈黙の中に葬る理由ではない。
録音や配信は、生演奏に取って代わるものではない。
しかし、生演奏が生んだ奇跡を記録し、世界へ、そして未来へ届けることはできる。
演奏会は一夜限りでよい。
しかし、名演まで一夜限りにしてはならない。
尾高忠明、ベンジャミン・グローヴナー、そして大阪フィルが10月1日に創り上げた音楽は、その場にいた聴衆だけのものではない。
未来の聴衆へ引き継ぐべき、日本の文化的財産である。
あの満場の拍手がまだ鳴り響いている今こそ、この演奏を世界へ送り出すべきである。
そして世界は、大阪にこれほど素晴らしいオーケストラが存在していることを知るべきである。