現実という荒野で、泥だらけの純情を保ち続けて――『文明のターンテーブル』が永遠に読まれることを願う
2011/8/22
私の、「文明のターンテーブル」が、どれだけすごいかについては、やむを得ず、このネット上に登場した去年7月19日から今日までの、私の文章の数々を読んでもらえば、一目瞭然のはずだ。
私が、忽然と姿を現した戦後最高の思索者の一人である事を、出版関係者の方々なら、真っ先に気付くべきであったと、私は思うのだ。
嘘だと思うなら、すべてがオリジナリティーに溢れた文章の数々、かつて誰も指摘しなかった視点、或いは観点からの目の覚めるような文章の数々を、再読して下され。
読者の方はもう既にお分かりのように、私は物心ついた時からの「神の試練」通り、キリストや釈迦のような人生を生きたわけである。
わが愛する、わが永遠に愛する同級生たちのように、東大や京大や東北大etcへ行って、日本の各界の中枢で、世の為、人の為に頑張るという道ではなくて、何故、私がこのような道を歩んで行ったのか。
私の使命とは、もう既に書いてきたように、この国にある本質的な病を糾す、ただ、その為だったからである。
もはや、何の遠慮もなく言うならば、東大を、京大を、東北大をetc.を出ましたと、言う事をもって思索するのではなく、或いはそこに寄り掛かって思索し物を言うのではなく、自分に与えられた使命を片時も忘れず、ただひたすら、現実と言う荒野の中で、生き延びる事に忙殺されながら、所謂・知識人の方々の様な、結構、毛だらけの読書生活や、研究生活とは、全く正反対の、言わば、死に物狂いの泥だらけ!
私の世代の人間で、ほとんど誰一人嫌いだという者のいない歌手であり女優、吉永小百合が、デビュー作と言っても間違いではないだろう「キューポラのある街」で歌っていた歌、♪泥だらけの純情♪という歌があるのだが。
もはや、なんのてらいも無しに言えば、私は、正にその通り、泥だらけの中の純情を保ち続けてきた人間なのである。
それは言うまでもなく、仏典にいう所の、最も美しい蓮の花は泥の中に咲く、そのものであったのだ。
私の文章のすべてが、そういうものであった事に気がつかぬ出版社の方なら、仕方がないのではないか。
まあ、そんな事はさて置いて、私は何度か、呵々大笑として書いたように、私はノーベル賞級の事を為した。
つまり、この国の本質的な病について、かつて誰も為し得なかった程、深く、簡潔に…私は使命を果たして…既に糾したのだ。
「文明のターンテーブル」が、廻った日本という事について言えば、本当にノーベル賞級の事を、私は為したのである。
もちろん、私の事だから、私は何の賞もいらない。
およそ、ありとあらゆる賞などこれっぽっちもいらない。
「男はつらいよ」が、日本中の津々浦々だけではなく、世界中にも永遠にファンが居て、見られ続け、今でも生きているように、
私の「文明のターンテーブル」も、願わくば、日本中の津々浦々の、大多数の人に永遠に読まれるものであって欲しい、ただそれだけが願いである。
それこそが私の本望であり、本懐なのである。
そうなった時には…何度も言うが、日本は嫌でも変わる、ましてや、本来はとうに出版されているべきだった「文明のターンテーブル」に、
それこそが本当の綴じ込みとして、私が書く、どえらい、度肝を抜く提案は、
その事を証明するものであるからだ。