「テレビは思想の媒体ではない」――梅棹忠夫が語る、発言への責任と芸能との一線

2010-11-2
以下は前章の続きである。

テレビは思想の媒体ではない

 小山 
梅棹さんは感性的にものを言っているんじゃなくて、かちっと論理的に構成するから出演をやめたのかなと思うんです。放送、テレビの収録では、考えていたことが時間の都合で全部とばされたりしますね。そういうのがたえられないんじゃないですか。

 梅棹 
とにかく、活字人間には、放送みたいな雑な仕事はたえられんな。

 小山 
それから、何よりも記録に残らない。
無責任。
だけどいまはビデオとかDVDとかがあって、本人は不満足でも、作品が残っちゃうんです。

 梅棹 
切ったり貼ったりの編集が、発言者の最終確認をとらないでやられてしまう。
本だったら、最後の最後まで、ここ削ったり、ここは誤解を生むからちょっと足したりってできるけれど、テレビやラジオでは、それは発言者にはできない。
だから責任が持てない。

小山 
その発言も、梅棹さんなんかであれば、話すときには、ちゃんと予稿をつくって演説するでしょう?

 梅棹 
あれは思想の媒体ではないな。

 小山 
無礼だとかいやだとか、おれの趣味に合わんというのでは理由にならないんだ。
「放送は思想の媒体ではない」。
ああ、いい言葉だ。
これが聞きたかったところです。
新聞社でも、電話インタビューは全部断っていましたね。

 梅棹 
断った。これも責任が持てないから。

 小山 
すると梅棹さんが書いていることは、全部責任を持って書いている。

 梅棹 
あたりまえやろ。
全部自分の言ったことを確認している。
それができない媒体には責任を持てない。

 小山
ずいぶん厳しいなあ。

 梅棹 
わたしは、別な言い方したら、芸能化するのをひじょうに嫌った。

 小山 
芸能化というのは、同じことの繰り返しですか?

梅棹
それから、ウけるということ。
それがいやだった。
だから芸能人とちがう。

 小山
そこのところの境界線をどう越えるか、それがよく言われるけれど、やっぱり梅棹さんはきちっとやった。

 梅棹 
わたしは厳しいよ。
芸能と区別する。
しかし、これはかなりむつかしい。

 小山 
カメラの前に立たされたら、自分のやりたくないことも要求されるでしょうね。

 梅棹 
そや。

 小山 
そうか、思想の媒体ではないと切り捨てるのは、すごいなあ。
すると梅棹さん、「学術をポケットに」と、一般の人が読めるような文庫、講談社文庫にまとめて載せましたよね。
それから『文明の生態史観』も中央公論ですね。
全部、学界みたいに、自分の世界に閉じこもっちゃって、小さな世界で情報発信して受け取ってやっているというのは…

 梅棹 
そうではない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 ※ が付いている欄は必須項目です


上の計算式の答えを入力してください