芸術家の使命と虚像の作家 ― 村上春樹と『騎士団長殺し』をめぐる阿羅健一氏の批判

随分前に、世界中のプリマから大変な尊敬を受けているモナコ王立バレエ学校の老女性教授が来日した。
その時に彼女が芸術家の存在意義について語った言葉である。
『芸術家が大事な存在なのは、隠された、隠れた真実に光を当てて、それを表現する事が出来る唯一の存在だからです。』
彼女の言葉に異議を唱えるものはいないだろう。
阿羅健一さんは、私が永遠に愛する母校である仙台二高の先輩であるだけではなく、私が彼の業績に対して敬意を抱いている事は読者はご存じの通り。
以下は、22日、我が家に届いた月刊誌WiLLに、『騎士団長殺し』(南京虐殺)の無知と捏造、と題して掲載されていた彼の論文からである。
私は、この論文を読んで、私の村上春樹に対する、或る評が正鵠を射ていると確信もした。
村上が朝日新聞を購読・精読している人間である事は間違いない…つまり彼の頭脳は朝日新聞の論説で出来ていると言っても過言ではない。
その頭脳に付け加えれば、彼の職業の始まりだった米国(主に短編作家)作家の翻訳を通して、彼らのアイデアや作風等を剽窃して出来上がっている頭脳。
大凋落して行っていた出版界の事情と反日国家の思惑が重なって彼は大ベストセラー作家に祭り上げられた。
つまりは、朝日的な似非モラリズムを浸透させるための虚像だったと言っても過言ではないだろう。
大金を得た彼が、国際的なリゾートホテルに滞在して執筆している事を知った私は、直ぐに、或る仮説が浮かんだ。
中国や朝鮮半島の情報部は彼を狙うはずだ。しかも場所は国際的なリゾートである。仕掛けるのに、これほど容易な舞台はない。
もし、この仮説が当たっていないとしたら、彼は、中国が「底知れぬ悪」と「まことしやかな嘘」の国であるある事を知らない愚かな人間なのだろう。
古来から中国に隣接する国々は「腹黒国家」として中国に対しては常に警戒心を抱いていた事を知らない愚かな人間なのだろう。
中国の書店には「腹黒本」が積まれたコーナーがある事も知らない人間なのだろう。
会社経営者だった私の人生の中で、中国人に対して「中国人は頭が良いから」という枕詞を付けて話す人物がいた。
彼も朝日新聞を購読・精読していたのだろう…そういえば彼も早大卒業だった…おまけに、その枕詞に、時々、中国人は私たちより頭が良いから、と付くのである。
私が、内心、どれほど「ムッとして…イラっとして」聞いていたかは言うまでもない。
日本国民のみならず世界中の人達が必読。

阿羅健一
『騎士団長殺し』(南京虐殺)の無知と捏造
中国にほめられた村上春樹の誤った歴史観

中国がほめたたえた村上春樹 

毎年秋を迎えると、ノーベル賞が話題となる。
ここ十数年は村上春樹の受賞が期待されてきた。
日本人がノーベル賞をもらうことはきわめて喜ばしいことである。
しかし、村上春樹についていえばそうはいえない。
というのは、平成29年に村上春樹が「騎士団長殺し」で南京事件を書くと、中国はノーベル賞が与えられるべきとほめたたえた。
昨年12月13日、中国にある日本人学校が休校かオンライン授業となるなか、在日中国大使館は南京事件犠牲者への冥福を呼びかける。
南京大虐殺紀念館前の会場は8000人の大群衆で埋められ、中国にいる日本人児童が心配された。
村上春樹がノーベル賞をもらうなら、中国は村上春樹をほめ上げ、南京事件を騒ぎたて、日本人児童の生命は危ぶまれるだろう。 
小説『騎士団長殺し』は絵画「騎士団長殺し」をもとに展開する。
絵画が描かれたのは昭和10年代で、昭和11年防共協定締結、昭和12年盧溝橋事件勃発、と歴史事実が記述され、昭和12年12月南京虐殺事件が起きたと続く。
村上春樹はこう書いた。 
「日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市民の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を40万というものもいれば、10万人というものもいます」 
『騎士団長殺し』から2年後の令和元年、村上春樹は父親のことを書いた『猫を棄てる』を発表する。
父親は京都に生まれ、南京戦の翌年に第16師団の輜重兵として出征、もう一度召集され福知山連隊に入隊する。
村上春樹は、福知山連隊が南京戦に加わり血なまぐさい評判がついてまわっていたので父親が南京戦に従軍していないと知ったとき、「ふっと気がゆるんだというか、ひとつ重しが取れたような感覚があった」と書く。
これからすると福知山連隊の血なまぐさい評判から南京事件を創作としてでなく、打ち消しがたい事実とみなして書いた。 
福知山連隊の血なまぐさい評判で浮かぶといえば、昭和62年7月、連隊の一兵士であった東史郎が自分の分隊は南京で中国人を殺害したと証言したことであろう。 
このときのマスコミはそれまでの一回だけの報道と違っていた。
朝日新聞、しんぶん赤旗、京都新聞が異常なまでの報道をした。
朝日新聞は暮れまでのあいだに4度も東史郎を報じた。
赤旗は8月14日から36回福知山連隊について連載した。
京都新聞は昭和63年7月5日から10回取り上げた。
これら報道により福知山連隊と南京事件の関わりが国民に深く刻みこまれた。 
福知山連隊は丹波の一部と丹後一円に生まれた壮年から構成され、多くは報道があったころも京都に住み、地元の京都新聞が大々的に報じたので証言が正しいかどうか確かめることができるのに、との声があがった。
記事の訂正を申しいれるが、貴重な証言をした兵士に対する脅迫だと京都新聞は顧みない。
まともに応対されなかったため購読をやめようという声があがる。
その声は京都新聞も無視できず、昭和63年12月、東史郎の所属していた中隊の中隊長をふくむ5人の対談を掲載した。
戦場で兵士たちは24時間一緒の生活を送り、5人とも東史郎をよく知る人で、証言がつくりごとであることが語られた。
さらに平成元年4月、マスコミは虚妄の証言を載せ福知山連隊が狂気の殺人集団のように報道するので正さなければならないと「福知山連隊愛護会」を結成する。
70代に入っていたが300人ものひとが集まった。
会報が発行され、講演会が開催され軍隊はどういうものか、戦場はどういうものかが語られ、講演会は数100人も集まる盛会となる。
「福知山連隊愛護会」は市民殺害があったか調べるよう会員に呼びかけるが、そういう事実は出てこなかった。
この稿続く。

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