野坂参三の帰還と「敗戦革命」の危機――朝日新聞の報道、GHQの占領政策、公職追放を読み解く
以下は、江崎道朗著『日本占領と「敗戦革命」の危機』(PHP新書)からである。
日本国民のみならず世界中の人たちが必読。
2018-10-26
しかも、共産党を取り締まる特高警察は廃止され、日本軍は解体され、保守系の政治家や官僚は公職追放されていた。
以下は前章の続きである。
役者が揃い、遂に現実化する「敗戦革命」の危機
『朝日新聞』はさらに延安での野坂の活動について、こう紹介している。
《野坂氏が延安に入ってからの活動についてはアメリカの評論家アッドリュー・ロス氏も「日本のジレンマ」(1945年9月刊)の中で詳細に興味深く記述し、彼の存在はにわかに析時代の脚范を浴びるに至った。
日本人解放聯盟が創立された当初のメンバーは約五百名で、このうち優秀な組織者となるべき決意と体験と能力を具えた約二百名を骨幹として日本の根本問題を研究討議し、かつあらゆる機会を利用して計画を作成した。
日本軍の敗退前においてさえ、その計画と宣伝技術は非常に効果的なことが実証され、日本軍捕虜の八割までが、反軍思想を受け入れるに至った。
解放聯盟は日本敗北の見通しがほぼ決定的となった時期に設立されたため、日本の戦後計画に重点をおいていた。
その中核は固より共産主義者であるが、その数は全体の二割五分にすぎなかった》
「日本の戦後計画」、つまり敗戦革命を「優秀な組織者となるべき決意と体験と能力を具えた約二百名」が骨幹となって「日本の根本問題を研究討議し、かつあらゆる機会を利用して計画を作成」したと書いている。
これは、まさに本書の第二章で詳述したとおりのことである。
延安で訓練された優秀な幹部がこれから敗戦革命を大いにやるぞ、という宣言だ。
《解放聯盟自体は共産主義者に限らず、非共産主義者あるいは反共産主義者にも門戸を解放していたが、党員たるに必要な条件は戦争の終結、軍国主義者の追放および農民労働者、中小産業者の地位改善を伴う民主主義的日本の建設という基本綱領の承認であった》
「解放連盟中の共産主義者は全体の二割五分にすぎない」というのもそうだが、この部分も、共産党をあたかも穏健な民主主義のようにイメージ操作して宣伝している。
結びは、中国共産党と解放連盟の称賛である。
《かつて日本軍は数名の特に訓練した刺客を延安地区に送って野坂氏らを斃し、解放聯盟をつぶそうとした。
しかしこれらの人物のうち捕えられて聯盟の有力分子となったものも少なくない。
日支事変勃発以来、八路軍の捕虜となった日本兵は不思議なほど歓待をうけた。
「捕虜を殺すな、好遇せよ。
もし希望するなら帰してやれ」というわけだ。
昭和十九年の半ころまでに約三千の日本兵が捕虜となったが、このうち三百五十名が八路軍内に残った。
他のものは壮行会までしてもらい旅費と案内人をつけて再び日本軍に帰された》
当時、朝日新聞では、戦時中地下に潜行していた共産主義者の聴濤(注・きくなみ)克己が復帰し、読売争議と並行して労働組合を結成、活発に活動を始めていた。
「人道的な」中国共産党軍とそこから支持された野坂参三を讃えることで、日本は、中国共産党の側、つまり共産革命をめざそうと示唆したわけだ。
野坂の東京入りは、さながら凱旋将軍のようであった。
「人民の英雄、同志野坂」「働かせろ、食わせろ、家を与えろ」「人民共和政権樹立」などの幟やプラカードが林立するなか、1943年までソ連の国歌であった「インターナショナル」を斉唱する群衆に迎えられたのである。
1946年1月26日に日比谷公園で開かれた野坂歓迎国民大会には3万人が集結し、野坂は壇上からこう演説した。
「無能なる現内閣は退陣すべきであり、人民政府を樹立せねばならぬが、そのためには民主勢力の結集が大事である。
民主々義確立のための奮闘は愛国的行為であり、それ故に民主戦線は新たな愛国戦線である」
なんといっても、GHQと戦勝国のソ連の「敗戦革命派」が後ろ盾である。
怖いものはない。
しかも、共産党を取り締まる特高警察は廃止され、日本軍は解体され、保守系の政治家や官僚は公職追放されていた。
*この箇所を読んだ私は即座に従北政権である韓国の文在寅政権のやり方とそっくりであることに気が着いた*
国民は、GHQの検閲と宣伝工作によって日本政府と軍部の批判ばかりを聞かされ、軍部への不信感を抱くようになっていた。
日本がポツダム宣言を受諾した当時、ごく一部の人々だけが憂慮していた「敗戦革命」の危機が、GHQによる対日占領政策の進行とともに、現実のものとなろうとしていた。