荒唐無稽な『騎士団長殺し』 ― 村上春樹の南京事件観と40万説の虚構

以下は前章の続きである。
村上春樹『騎士団長殺し』に描かれる南京事件40万説は、虚偽証言や誇張された数字に基づく荒唐無稽なものだった。
東史郎証言の裁判経過や福知山連隊の実態、教科書記述問題を検証し、村上の誤った歴史観を批判する。
荒唐無稽な『騎士団長殺し』 
村上春樹は、若いうちから父との関係が疎遠になり、作家になると屈折した関係に、最後は絶縁に近い状態になった。
父親が死ぬ直前まで20年間以上まったく顔を合わせなかったというから、報道がなされたとき父親が福知山連隊を話すことはなかった。
村上春樹が子供のころ父親は毎朝仏壇に向かいお経を唱えていたので、誰のため唱えているか尋ねると、「前の戦争で死んでいった人たちのためだと。そこで亡くなった仲間の兵隊や、当時は敵であった中国の人のためだと」答えた。
ここからも父親が福知山連隊の血なまぐさい噂を語ることはなかったとわかる。 
報道が続くうち、中国人を殺害したという分隊長が東京で健在であることがわかった。
分隊長は日記に書かれていることはなかったと平成5年4月東京地裁に名誉棄損で訴える。
東京地裁で公判が開かれると、京都からかならず何人かが傍聴に来た。
村上春樹の父親とおなじ輜重連隊の斉藤忠二郎も欠かさず傍聴に来た。
斉藤は「南京四旒の軍紀と汚名」という自家本を出し、南京事件はなかったとの幟を自転車に掲げて京都を回った。
それほど証言は捨てておけなかった。
それでもマスコミの東史郎擁護は変わることなく、平成6年5月、TBSテレビは丹後まで出かけ東史郎を取材、虐殺が事実であると印象づける番組「ヘッドライン」と「筑紫哲也ニュース23」を放映する。 
平成8年4月、東京地裁は残虐を裏づける客観的証拠はなく、描写を真実と信ずる理由もないと判定する。
すると京都新聞は「虐殺認めた東さん(丹後町)救え」と報道した。
東史郎は訪中して謝罪を繰り返した。 
平成10年12月、東京高裁も日記は現存せず虐殺行為を裏づける客観的証拠はないと判決する。
平成12年1月、最高裁も同様の認定をくだし、東史郎の証言がどういうものかはっきりした。 
マスコミは事実を見極めもせず報道し、中立であるべきなのに擁護キャンペーンを続けた。
血なまぐさい評判といわれるものは事実無根で、村上春樹は偏った報道をもとに南京事件を書いた。 
村上春樹は『騎士団長殺し』で犠牲者40万という説をあげている。 
その説は南京大学歴史系編著「日本帝国主義の南京における大虐殺」に記述され、それによると東京裁判が20万虐殺を判決するもととなった21万人がまずあげられ、そのほか南京城内外13か所に死体があり、それを合わせると40万前後になるという。 
これを見ると、東京裁判に出された数字でまともなものは紅卍字会の埋葬記録だけで、その数万人はほとんど戦死体である。
東京裁判以外の数字は、戦場での戦死体、それもほとんど膨らました数字や架空の死体や市民のいない場所の死体で、それと中国では戦死した軍人や流れ弾の市民も虐殺死と数えるが、それらからなる根拠や証拠とは言えない。 
40万という数字は加藤陽子東大教授も引用して話題となった。
平成14年、検定合格した山川出版社の高校日本史B『詳説日本史』に「数万人~40万人に及ぶ説がある」と記述した。 
教科書に40万という数字が載るのは初めてで、文科省は近隣諸国条項により注文をつけなかったが、巷から厳しい批判が続出した。
そのため、その年の12月3日、山川出版社は修正申告し、40万を削除した。
「生徒の適切な理解を妨げるおそれがあるため」と説明した。 
そのような数字を教科書に書くくらいであるから、加藤陽子教授が令和2年に学術会議の会員任命を拒否されたのは当然である。
40万という数字はこのように荒唐無稽なものである。 
そういった数字をあげる中、村上春樹は日本軍に捕虜を管理する余裕がなかった、と事件発生の原因だけは記述している。
この記述についていえば、捕虜の扱いについて日本軍ではたびたび訓示や命令が出されていた。
事変早々上海で捕らえた捕虜は収容所に入れられ、作家たちが訪問して報告した。
雑誌が紹介しただけでなく、新聞は多数の捕虜の写真を載せ、ニュース映画は捕虜が生活している様子を上映した。
捕虜はどのように扱われていたかだれもが知っていた。
松江、蘇州、南京、上海などでは数千人を捕虜とし、収容所に入れて管理した。
捕虜を管理する余裕がなかったとはまったく根拠のない指摘である。
村上春樹の南京事件は無知と捏造からなっていた。
この稿続く。

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