違和感に対する私の答え ― 立花隆批判と独創の本質

違和感に対する私の答え。
2010年10月01日

現実の社会で働いて生きて行くしかない、と決めて、これからの10年は本も読まないと決めてからの僕は、それまでの人生から見れば、全く本を読まない人に成ったのですが、

弊社専務は、そんな事を考える必要は無かった人生だったから、本を読み続け、今では日本有数の読書家…読むべし本だけを読んでいる…の一人。

僕は、梅棹忠夫大人の本でさへ1冊も読んでいないのですから、立花隆の本を読んでいる訳はない…先日、「立花隆って、どうなの?」と専務に聞いた時…大した事ないよ…という返答だった。

今日、昼ご飯を食べに行く途中で再度聞いてみたのでした…「宇宙からの帰還」は良かったと思う…内容は云々で…。

それって、アメリカで幾らでも語られていたことじゃないか…僕は日本有数の米国映画鑑賞家ですから…様々な映画や、テレビドラマ等で、幾らでも語られている事…ただの焼き直しじゃないか…何の独創もないじゃないか。

詩人の偉大さは、家の書庫の大きさになど在る訳がないのは無論。

日本のマスコミは、いい加減…誰かが成した事=過去の事を、山ほどの資料を集めて、何事か書いた作家を…大作家の如く扱うのは、止めた方が良い。

既述したネット上に在る司馬遼太郎についての労作に、僕の言わんとする事の本質を言い当てた部分が在る…「何故?昔の事ばかり書くのか」と問われた司馬遼太郎が「今の事や近い過去の事は書けない…極端に言えば、10分後に何が起こるか分からないし、近い過去の事は、何時評価が覆るか分からない…過去は終わった事だから…確定した事だから…」

過去の事をのみ詠った大詩人など居る訳はないのです。

言える事は…立花隆は、何一つ独創したことはないはずだ。
独創する人では無いから、書庫の山に隠れるのである。

科学や化学、物理学の研究者でも在るかのような扱いを受けているようだが、彼が成した訳ではなく、本当の本物の学者たちが、日々に研究した成果を読んでいるに過ぎないと僕は思う。

読むべき本を読む事は大事な事だが、詩人や作家、歌手や芸術家は、読んだ本の量等には何の関係もない。

ただ、ただ、眼差しの深さ、心の深さに依るのである。
もっと、言えば、むしろアウトサイダーの度合いに依るのである。

インサイダーの芸術家なんて居る訳がないと言っても良いのです。

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