アーケイド・ファイアーのアルバムから見る日本の「本質的な病」
アーケイド・ファイアー最新作を讃えつつ、日本の芸術と言論が抱える「山脈・森・海」の比喩的な病を告発。自由と知性を取り戻す条件を問う随想。
2010年9月18日に書かれたこのブログ記事は、音楽バンド「アーケイド・ファイアー」のアルバムを称賛しつつ、日本の音楽や芸術、そして社会全体が抱える「本質的な病」を指摘している。筆者は、日本の山、森、海が不幸な状態にあることが、文化や政治の貧困に繋がっていると主張。何者かに属した精神では真の創造性は生まれないとし、日本の根本的な問題を誰も解決しようとしてこなかったことへの深い嘆きを綴っている。
アーケイド・ファイアーの最新アルバムは素晴らしい…
永遠に愛する同級生達よ、親友の方々よ。「文明のターンテーブル」を読んでくれている読者の方々よ。
アーケイド・ファイアーの最新アルバムは素晴らしいよ。
ビートルズの、ジョン・レノンの域に近づいて来ているよ。
いつものように近所のスタバで、夕刻の風に吹かれながら、聴いて居た。
音楽は、最初は響きの深さ…上手くなり、修練して行って、一つ一つの音が深く、柔らかく、例えようも無く美しい響きに成って行く。
日本の音楽が、日本の芸術が、あまたの政治家が、大新聞の高説が駄目なのは、私たちの国に、いまだに存在する本質的な病を、糾そう、解決しようとして来なかったからなのだ。
何者かに属した精神に、本物の芸術、本物の言葉、本物の哲学が宿る訳はないのだ。
今、若者に大人気の作家たち…僕は、申し訳ないが、かれらレベルの物を書くだけなら、鼻歌交じりで、幾らでも書ける…今まで書いて来たように。
日本の問題とは…日本の山脈が、山の頂きが、森が、海が不幸な事に在るのだ。
随分前に間違った有様を、誰も、変えようと、救おうとしなかった事に在るのだ。
日本の山の頂は、今も、とても不幸なのだ…山脈の不幸な国に、本当の幸福が、本当の自由が、本当の知性が在る訳は無いのだ。
だから日本の音楽は貧弱なのだ…貧しくて、底が浅くて、直ぐにリリシズムに流れるだけ…本当はリリシズムというのもオコガマシイ代物だが。
随分前に…文芸の、雅の、遊びの心だった日本の山脈、日本の海、日本の森は…
私たちは、今も、日本の山脈を、日本の森を、日本の海を、元に戻していないのだ…
誰も気が付かず、誰も日本の山脈を、日本の森を、日本の海を、元の場所に、雅の場所に、文芸の場所に、遊びの場所に、戻していないのだ。
日本の山脈は、日本の森は、日本の海は、今も、とても不幸なのだ。
誰よりも不幸なのだ…僕が1冊の本を書き出すまで、誰も気づかないだろうが。
日本の山脈だけが、日本の森だけが、日本の海だけが、様々な名前のエゴイスト達に依って、放って置かれたままで、自分たちの家に帰れていないのだ。
作家、音楽家、画家、政治家、大新聞の度し難い論説委員、誰も気づかずに来たから、日本の芸術、政治、マスコミは貧しいのだ。
底が浅いのだ。
日本の音楽は聴くに耐えないのだ。
ずーっと、日本の山脈は、日本の森は、日本の海は、誰よりも不幸で、寂しいままなのだ。
僕が出会いたくも無く、出会った或る男は、一人で、世の中を変える事なんて出来ない、と言った。
彼は何にも分っていないのである。
高橋和己が言ったように、「何時の時代も、時代を変えて来たのは、身に一物も持たない寒士たちだった」ことを。
2010年、9月18日