民主党の「悲劇」とマスメディアの罪:雪舟に祈りを捧げる
2011年3月23日、誤ってリツイートした「民主党の非」という表現を訂正し、問題は党全体ではなく“本物の大将”を葬った権力とそれに追従したメディアだと指摘。参院選敗因や現内閣の末期症状を糾し、言論人の責任と交代を求める。一方、知恩院・三門での祈りや雪舟・光悦・宗達への考察を通じて、美と「上品」への回帰を誓う。
2011年3月23日のブログ記事。筆者は、東日本大震災下の日本の政治的混乱が、マスメディアが作り上げた「土建屋政治」という虚構と、民主党を政権に押し上げた真のリーダー(小沢一郎氏)を排除した結果であると主張します。大将でない人物(菅直人氏)が政権の座に就いた悲劇を指摘し、メディアの責任を強く追及。同時に、京都の知恩院を訪れた際の経験と、水墨画家・雪舟の生涯を振り返り、日本のために祈りを捧げます。
今、アメーバの読者の方からペタを頂いて、その方のブログをツイッターに、リツィートしたのですが。
2011-03-23
タイトルが、民主党であったことの非、とあった事に気がつかず、そのまま、リ・ツィートしてしまいましたが、私の読者の方ならご存知のように、…民主党全体の非ではなく…民主党は歴史上初めて、選挙に依る政権交代と言う偉業は成した遂げたのです。政治生命をかけて、成し遂げた人物を、…時の政権が、交代が明らかだったにも関わらず、イタチの最後っ屁の様に、三井環氏が言うところの、「けもの道」、を、使って、葬ろうとした…この人物こそが民主党を政権党に押し上げた事は明白で、後は、小者に過ぎないと、彼らは思っていた訳です。
それを、マスメディアが支持して…私が糾し続けている、ロッキード以来の文脈の中で…、いみじくも朝日の論説員は、つい、この間、明確に言及した…土建屋政治にピリオドを打とうとの論説を張って…彼らが作った、これまた虚構であった土建屋政治という言葉…その象徴の悪人に仕立て上げて…無実は誰の目にも明らかなのに…あろうことか罪人扱いを…大音声で為して…現政権=大将でないものの政権を作ったところに、悲劇があるのであって、民主党全体の悲劇ではない。
そもそも、参院選挙で大惨敗したのも、この、大将では全くない人物…首相になってはいけなかった人物が、突然、独りよがりに発した、消費税10%増税に在った事は明々白々な事実。
支持率が10%台になっていただけではなく、当日には、当人の致命的な政治資金問題が朝日の一面スクープで取り上げられていた…御臨終内閣が、今、いそいそと仕事をしている悲劇なだけ。
だから、私は言うのです。
作り上げたマスメディアは、責任を取るべきだ…自分たちが言論界の表舞台から永久に消える前に…言論人の責任として…政治を語る事で禄を食んで来たのだから…この男に引導を渡して、本物の大将を、国の為政者に据えるべきなのだと。
あなた方が20年超、やって来た事が、…如何に愚かで、国に害悪となった虚構かを…まざまざと…天は見せつけてくれたのだから。
貴方がたの…取るに足らない…自分たちの正当性だけは保持しようとした態度が、どれほど罪深いかを知るべきだと私は糾しているのです。
雪舟、光琳、宗達、等について、正確に認識しようと…
読者の皆さま方に、一緒に読みましょうとの記事を掲載するはずが、どんどん、逸れて来た(笑)ので、…後は号外にしました。
本日、5時40分に発行されます。http://www.mag2.com/m/0001229710.htmlで。
私の祈り…。3月21日、知恩院、友禅苑にて。
これまで、私は、石塔や銅像等が好きではなく…これが高じて石灯篭まで敬遠していた有様(苦笑)。それで先日は、これほどのものだった、流石、高村光雲。
その見事さに気がついたのは、偶々、拝観最終日だった国宝、知恩院・三門に入り、自分が高所恐怖症であったことを思い出させた…カメラを首に掛けていた不安定さが、余計にそうさせたのですが…これ以上ないような急階段…二条城の別棟の城塞として建立されたからな訳ですが…この階段を刀を振りかざして上る事は、先ず不可能。
息も絶え絶えに…私の前に上っていた、おばさんは、それこそ、這いずる様に、手摺の縄を必死で掴みながら、這い上がっていたのです。
まさか、それほどではないだろうと思いながら上ったら、全く、その通り。…皆が必死だから、逆に事故が起きない程の。
やっと上って見れば、何という見晴らし。早速、撮影をと思えば、禁止だと…聞けば、マンション等が増えて来ているから、プライバシーの問題で…御意と、知恩院境内の方を眺めてみた時に、叫んだ。おお、何と言う見事さ。流石、高村光雲。…この像は、三門からが一番だと私は思う。…これを撮るだけの為にも友禅苑に行かねばならぬ、と。…三門内部を観て私が思った事は、後日http://www.mag2.com/m/0001229710.htmlにて。
雪舟さん、日本のために祈って下さい。
(ウィキペディアより。)
雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) – 永正3年(1506年))は、室町時代に活動した水墨画家・禅僧。「雪舟」は号で、諱(いみな)は「等楊」(とうよう)と称した。
備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や浙派の画風を吸収しつつ、各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立。後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
現存する作品のうち6点が国宝に指定されており、日本の絵画史において別格の高い評価を受けているといえる。このため、花鳥図屏風など「伝雪舟筆」とされる作品は多く、真筆であるか否か、専門家の間でも意見の分かれる作品も多い。代表作は、「四季山水図(山水長巻)」「秋冬山水図」「天橋立図」「破墨山水図」「慧可断臂図」など。弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。
応永27年(1420年)、備中赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。幼い頃近くの宝福寺に入る。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事、禅の修行を積むとともに、天章周文に絵を学んだ。
享徳3年(1454年)頃周防に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、龍崗真圭に字説を請。以後、雪舟を名乗ったものと思われる。これ以前は拙宗等楊と名乗っていたと思われるが、拙宗と雪舟が同一人物であることを示す確実な史料はない。
応仁2年(1468年)に遣明船で明へ渡航。各地を廻り、約2年間本格的な水墨画に触れ、研究した。天童山景徳禅寺では「四明天童山第一座」の称号を得る。
文明元年(1469年)に帰国し、周防のほか豊後や石見で創作活動を行う。文明13年(1481年)秋から美濃へ旅行。文亀元年(1501年)頃には天橋立に赴き作品を残している。
没年は確実な記録はないが永正3年(1506年)に87歳で没したとするものが多い。文亀2年(1502年)とする説もある。命日も8月8日(古画備考)、9月16日(雪舟伝)など諸説あり、最期の地は石見の大喜庵。
雪舟と親交があったとされる益田兼堯の子孫・益田牛庵(元祥)執筆の「牛庵一代御泰公之覚書」で「雪舟(中略)極老候而石見之益田へ被罷越(まかりこされ)於彼地落命候(後略)」と有り、終焉の他は近年の研究で益田と確定された。雪舟の生涯には謎とされる部分が多い。
雪舟についてこんな伝説が残っている。
宝福寺に入った幼い日の雪舟が、絵ばかり好んで経を読もうとしないので、寺の僧は雪舟を仏堂の柱にしばりつけてしまいました。しかし床に落ちた涙を足の親指につけ、床にねずみを描いたところ、僧はその見事さに感心し、雪舟が絵を描くことを許しました。
これは雪舟について最もよく知られた話であると思われる。初出は江戸時代に狩野永納が編纂した『本朝画史』(1693年刊)である。
雪舟は外国の切手に描かれた最初の日本人である。昭和31年(1956年)に開かれた世界平和会議で世界平和文化人として日本から選ばれたのが雪舟だった。それを記念してソビエト連邦とルーマニアで切手が発行された。