2011/3/24 ― トルストイの二種類の人間と、私の本が目指す読者/孔子・オノ・ヨーコ・市場の反応、そしてメディアへの檄
2011年3月24日、トルストイが述べた「長所を見る人/短所を見る人」を軸に、自著が届いてほしい読者像を提示。孔子やオノ・ヨーコの言葉、米専門家の発言に反応する市場の動き、世論がテレビと新聞社説で形成される現実を抉り出し、メディアの責任を糾す。最後に尾形光琳の来歴を引きつつ、日本の美と知の系譜へ視線を向ける。
トルストイは、「戦争と平和」、の冒頭で、人間は二種類しか存在しないのだと言った。
2011-03-24
私の本は、どんなもので在りたいか?
トルストイは、「戦争と平和」、の冒頭で、人間は二種類しか存在しないのだと言った。
「相手の長所を見ようとする人間と、短所を、欠点を見つけようとする人間」
もし、あなたが、常に、相手の短所、欠点を見ようとする人間なら、私の本は読む必要がないだろう。
こういう人間は、間違う事が少ないからだ…但し、戦争をもたらしたり、民を疲弊させたりする、悪の人に成りがちな事例が多い事には、留意しなければならない。
そうではなく、相手の長所を見ようとする人間で、本来的に心優しい人ならば、私の本を読んでほしい。
何故か…あなたの前には、必ず、悪人が忍びよるからだ…他人であれ、、血縁関係であれ…その時、現れた悪人に、貴方がこう言ってくれる本で在りたい…
「Kisaraさんの本を読んで、人間とは何か、世界とは何かを知ってから出直して来い」。
或いは…「『文明のターンテーブル』を読んで、顔を洗って出直して来い」と。
朝早くに、NHKで、「世界の遺産」、孔子及び一族の事を放映していた。
孔子が山東省に生まれた人間であることは知っていた。…今、中国は、山東省、一省だけでも1億人近い人口で在る事に呆れながら調べた事があったから。
ただ、孔子が紀元前300年代に生きていた人間だったことは失念していた。
あの「論語」が紀元前の産物で、これを金科玉条としている人は、幾多の政治家や、彼らに影響を及ぼしていた人物の存在の例を上げるまでもなく、後を絶たず、今なお、影響力を持っている事に、複雑な思いを持った。
さっき、ツイートしようと思ったら、オノ・ヨーコさんのツイートが飛び込んできた…。
この間、京都を歩いていた時に、あなたの歌が脳裏に響いていた…あなたが一人で見る夢は、ただの夢だけれども、皆が、その夢を見れば、それは現実になる。…
何故か、僕は涙が溢れてくるようだった。
白金も黄金も玉も何せむに まされる宝 子に如かめやも…。
今、NHKのニュースを観ていて思った。
資本主義社会、或いは、どんな社会でも、結局はそうだろう。
世の中は、10%のエリート層と90%の、言わば普通の層で出来ている事は、既述した通り。
これに続く事は後で書きます。
米専門家、東京の水52ガロン飲まなければ米国の年間許容量に達せずと
これは12:38分に、フィスコが配信したニュースである。
これを受けたのであろう…株式市場は、後場開始と同時にグイッと上昇した。
常に、後付けの評論を為す人たちが、本当の意味で世の為、人の為になることはない。
これらの事については、多分、メルマガで書きます。…皆さんが目にしたことのない檄になると思うので。
一つだけ…私は江戸時代なら死んでいる年齢を超えているので、もう、てらうことも、隠す事もなく言いますが、…私は、この20年、大きな声を言論界で発していた人間たちの誰も及びもつかない頭脳を授かって生まれた人間だということ。
梅掉たいじん、等と同等の人だと思ってもらって良いということを、何のてらいも、遠慮もなく言います。
彼らとは全く違う人生を送ったから、彼らとはまた全く違う視点で書くことにもなるだけで…つまり私でしかない文章で、私に神様が与えた役割…
この国にいまだに在った本質的な病を糾すことを為すと同時に…それが当然な役割であった、日本発の21世紀宣言を為し、21世紀人間の確立を成し遂げること…
そのために書き続けるのが私の使命なだけで。
世論は、どこで、どうして作られて来たのか?…たった29万部の週刊朝日でか?
例えば、原発について、先週号の週刊朝日に書いていた人たちの声が、何故、世論になっていなかったのか、或いは、今日、ぺタを付けて頂いた読者の方のブログで、約一時間、講義を為していた人は。
私は、きちんと、その時間耳を傾けた訳だが…日本で開かれた原子力会議の議長役まで務めたという。
私が、何故、書き出してほどなくして、マスコミ…最初はテレビ、次に、論説員たち…について、彼らの心臓を抉ることを書き、今もなお、ずーっと、時間を割いて書き続けているか?
世論は、どこで、どうして作られて来たのか?…たった29万部の週刊朝日でか?
たった9万部のニューズウィーク日本語版でか?
違うでしょう。…
一番は…全国民=1億2千万人超が見ているテレビで作らていることに異論をはさむ人はいないでしょうし…ちょっと目端の効いた人なら…テレビの論説=キャスター達の論説に影響を与えているのは、…というよりも、そのまま…新聞の社説でしょう。
世論調査を為すのも彼らでしょう…彼らが間違っていたら、皆、間違う。
なのに、テレビが、この20年超、やり続けて来た事は何か!
今、それ見た事か、だから言ったじゃないか、お富さん、と声を上げている人たちの中には、…インサイダーとしてではなく、アウトサイダーとして、…
日本の、特に民放は…NHKだって、この民放を真似てワイドショー的な物を、増やしだしていたから似たようなものだった訳だが…彼らの声を拾い上げ続けて世論形成を為したのか?
そうではないでしょう。…
その代わり、24時間、言わばお笑い番組のオンパレードを、やり続けて来たんでしょう。
ここを糾さなければ日本は本当に死ぬ、と、私は糾し続けているのです。
彼らが殺し続けて来た…日本の decency を、今回、私が永遠に愛する東北人は、子供たちから老人に至るまで、世界に指し示してくれた。
この20年超の様に、…悪しき商業主義にのみ囚われて…或いは、時の権力の横暴に屈したり、追従したりして…今まで通りの番組作りを為すのなら、
あなたたちはもはやジャーナリストでも何でもないし、公共の電波を寡占して放送を為す資格はないのだから、自ら、解散するか、どうするかの選択を為すべきだろう。
それが史上類を見ない犠牲者たちや、被災者たちに報い、供養する唯一の道だと私は思う。
これ以上、人間の進歩や叡智の進展を阻害し続けるなら、そこに居る資格はないし、ましてや、おためごかしの高説なんぞは、貴方がたが地獄に行ってから言ってくれ。
日本最高給を取り続けるなぞは、とんでもない。
何故…言うまでもなく、それは世界最高級のジャーナリズムであることが、役割であり、それを果たしてこその最高給であるはずだからだ。
その反対に、国民を痴呆化させ、国を誤らせ続けた20年超である事は、もはや、隠しようもない事実。
貴方がたは、労働者としての給料を得る資格すら本当はなかったのだと私は思う。
1ヶ月程前、NHKで、番組編成についての視聴者代表の意見を聴く会儀なるものを見て…
視聴者代表だという…多分、どこかの有力者なり、しかるべき家庭の主婦の方が、各階層にバランスの取れた番組編成を、等という、一見、もっともらしい意見を述べていたが…私は、これを聴いた瞬間に、こんなおあためごかしをやっていたのでは、何も変わらないと、舌打ちをして観ていた。
各階層にバランスのとれた事実や真実なぞは何処にも存在しないし、ましてや自然界には在り得ない事を、今回の事は教えてくれたのです。
自然で言えば、自然は、或いは地球の、真の姿は厳しいものだと。
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「レンブラントより光琳」、と黒田清輝が言ったという尾形光琳について。
ウィキペディアより。
尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) – 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家。工芸家。
尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。
主に京都の富裕な町衆を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。
その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。
画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。
また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。
光琳の来歴。
同じくウィキペディア
京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。光琳30歳の時、父宗謙が死去し、光琳の兄が家督を継いだ。
その頃、雁金屋の経営は破綻していたが、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであった。
40代になって画業に身を入れ始めたのもこうした経済的困窮が一因であった。大画面の装飾的な屏風絵から、水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都市的な感覚と意匠があふれている。弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き小袖の絵付け、漆工芸品の意匠に至るまで、幅広くその才能を発揮している。
尾形家の祖先伊春は、足利義昭に仕える上級武士であったといわれるが、正確なところはわからない。伊春の子・尾形道柏(光琳の曽祖父)の代に染色業を始めたという。
道柏の夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道柏の子・宗柏は光悦流の書をよくする風流人であった。呉服商雁金屋は慶長年間には高台院、淀殿、徳川家康、徳川秀忠および同夫人江など当代一流の人物を顧客としていたが、宗柏の時代には東福門院(徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めるようになった。宗柏の末子で、雁金屋の後継ぎとなったのが光琳・乾山兄弟の父である尾形宗謙 (1621–87) だった。
この宗謙も光悦流の書をよくし、絵も描くという多趣味な人物だった。光琳は宗謙の次男として万治元年(1658年)生まれた。宗謙の38歳の時の子である。初名を惟富(これとみ)、通称を市之丞といった。5歳下の弟・権平が後に画家、陶芸家として知られるようになる乾山である。
当時のファッションの先端だった呉服商に生まれた光琳は、少年時代から能楽、茶道、書道などに親しんだ。こうした環境が後の彼の画風に大きく影響したと思われる。絵は狩野派の流れをくむ山本素軒に師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。
雁金屋の経営は、年間5千両以上も発注し最大の得意先だった東福門院の死去(延宝6年・1678年)を期に傾きつつあった。また、米を担保に大名に金子を融資する「大名貸し」を行って、その多くが貸し倒れになったことも雁金屋の経営悪化に拍車をかけた。こうした中で光琳30歳の貞享4年(1687年)宗謙が死去し雁金屋は兄藤三郎が継いだが、光琳が画業に傾注したのはこのような家業の経営難で激減した収入を絵で補うという面が大きかった。
光琳は30歳台前半に浩臨と改名。「光琳」の名が史料上確認できるのは35歳の(1692年)が初見である。44歳の元禄14年(1701年)には法橋の位を得ている(「法橋」は本来は高僧に与えられる僧位のひとつだが、後に絵師、仏師などにも与えられるようになった)。
光琳の作品には制作年代を確定できるものは少ないが、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られることから、彼が本格的な絵画を制作したのは法橋位を得た44歳以後、59歳で没するまでの十数年間だと推定されている。
光琳の代表作のひとつ『燕子花図』(かきつばた ず)屏風は、彼の作品中、比較的初期ものとされている。この屏風には「法橋光琳」の落款があるが、「法橋」の2字は別人による書き入れとする説が有力で、この説にしたがえば、『燕子花図』は光琳の法橋位受領以前の作品となる。
光琳は公家、大名、役人など、多くのパトロンをもっていた。五摂家のひとつ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推
測されている。また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助 (1669–1730) とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館収蔵)を描いている。
光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定した。