決断と矜持:小沢一郎の「決死隊」発言/王貞治に学ぶ努力と平常心/山中商会の光芒/原発報道の二重基準/黄砂の午後
小沢一郎氏の「政治が決断し決死隊投入を」発言、王貞治の努力と平常心に学ぶ書評、東洋美術を欧米に広めた山中商会の実像、原発報道における大手メディアの“内規”問題、そして黄砂が覆う大阪の空まで――決断・矜持・責任を横断的に論じる。
「政治が決断し 決死隊投人を」小沢氏、原発対応を批判…5/1、日経新聞2面から。
民主党の小沢一郎元代表は30日夜、自身に近い衆参国会議員約20人と都内で懇談した。出席者によると、福島第1原発事故に関し「根本的な対策を取らなければ大変なことになる。決死隊を送り込んで抑え込まなければならない。政治が決断することだ」と指摘した。
野球にときめいて 王貞治、半生を語る…5月1日、朝日新聞読書欄から。
王貞治〈著〉中央公論新社・1365円/おう・さだはる 40年生まれ。77年、通算756号本塁打の世界記録で国民栄誉賞
評・横尾 忠則、美術家
人生の節目でいつも不思議な力
「人生の節目ではいつも不思議な力が僕を導いてくれた」という王貞治。王さんの野球人生には「野球の神様」がついていないと考える方が不思議なくらい。次々と重なる偶然が王さんのエネルギーによって多彩な鉛球作昴を生み、その全貌をわれわれの記憶に焼きつける。
仮死状態で生まれ2歳まで歩けなかった王さんが「世界の王」になるまでの道程を才能の成せる術としてわれわれは崇敬しがちだが、当の王さんの努力は人智を超え、神明をも味方につけてしまったようだ。「天才とは努力の結晶」だとすれば王さんは天才だ。王さんの血の瀋むような努力が、肉体に無意識の天才を刷り込ませたのではないだろうか。そして真ん中に来る球だけを打てばいいというこの単純な哲学に到達するが、ここに至る人間学の錬磨には頭が下がる。巨人の選手は常に「紳士たれ」だった。王さんは死球にも怒ったことがなく、球を怖いと思ったこともない「平常心」で戦えた。
王さんは実直で誠実で母親譲りの感謝の気持ちが厚く、一度も不満を抱いたことがない。ホームランバッターになっても長嶋さんを「天才肌」と称賛し、ライバル視せず、一緒に野球を出来たことの「幸運」を喜ぶ。次々と襲う最愛の家族の死を乗り越えて、巨人を退いたあとはついにダイエーを日本一にした。そしてソフトバンクの監督になるま七の紆余曲折や、自らの胃がんの手術を経て、なお「僕のような幸せ者はいない」ので 「野球に恩返しをしたい」と野球への感謝を忘れない。
ぼくが長嶋さんにサインをもらった時、「野球というスポーツは芸術である」と書いてもらったが、王さんは「人生に似ている」と言う。王さんの野球と人生は一体化しており、ひとときも「野球にときめいて」いなかったことはない。そんな王さんにときめいたぼくは野球少年に戻ったのです。
ハウス・オブ・ヤマナカ 東洋の至宝を欧米に売った美術商…5/1、朝日新聞読書欄から。2011-05-02
朽木ゆり子〈著〉新潮社・2100円/くちき・ゆりこ 『マティーニを探偵する』 『盗まれたフェルメール』など。
なぜ、これが、アメリカに? ニューヨークで、ボストンで、一級品の日本美術を目にしてこうつぶやく人は多いかもしれない。しかし、日本びいきの外国人が買ったのね、と納得してはいけない。その外国人は、どんな手段で日本美術を買い入れたのだろうか。そこで浮かび上かってくるのが「山中商会」の名前である。
今はアメリカでも日本でもほぼ忘れられてしまっているが、この山中商会こそ、20世紀初頭から第2次世界大戦まで欧米に店を構え、海外の蒐集家に東洋美術を販売していた超有名店なのである。ジャポニスムはやや下火になったものの、アメリカではまだまだ東洋美術への関心は高く、大富豪と呼ばれる人々の蒐集熱も高まっていた。彼らの信頼を得た山中商会は、日本や中国の書画骨董を積極的に販売したのである。
美術品の散逸・破壊回避の一面も
こうした商人の行為は、しばしば「名品の海外流出」といった否定的な評価をされがちである。だが、山中商会が商売を通じて海外に東洋美術を紹介した功績は大きく、現在では商品のほとんどが美術館に寄贈されている点を考慮すれば、美術品の散逸や破壊を回避するという保護活動の一翼を担ったとも評価できるだろう。
こうした山中商会の歴史を、各地に残る資料を精査し解読するという地道な作業で掘り起こした本書は、そうした実証的方法により、一美術商の盛衰にとどまらず、アメリカ美術界の歴史を記述することに成功している。興味深いのは、たとえば大恐慌や戦争など、アメリカが直面した現実と山中商会の関わりである。美術品とはいえ、政情や経済状態の変動と無関係ではあり得ない。特に、第2次世界大戦で山中商会が解体されてゆくさまは、「敵国」における日本企業の実態を如実に映し出していて、読み応え十分である。読了後に美術館を訪ねてみよう。きっと新たな発見があるはずだ。
評・田中 貴子
甲南大学教授・日本文学
(新潮社・2000円)
▼くちき・ゆりこ ニューヨーク在住のジャーナリスト。
歴史から消えた世界的美術商
評者:秋田県立近代美術館館長 河野元昭
一気呵成に読んだ。気がついたら終章まで来てしまっていた。個人的に親しい人や作品の名が、次々に現れるのも止まらなかった理由だが、それは二義的なことに過ぎない。『フェルメール全点踏破の旅』で洛陽の紙価を高めた著者が、今度は日本美術の分野で、それに勝るとも劣らない興奮を与えることに成功したのである。
山中定次郎といっても、あるいは山中商会といっても、ほとんどの人は知らないだろう。美術史研究者でも、事情は似たり寄ったりだ。分厚い美術辞典でも、まず出てこないからである。しかし山中を知らずして、欧米の日本美術コレクションを語ることはできない。
慶応2年(1866)大阪に生まれた定次郎は、父に従って古美術商の道に入り、奉公に出た山中家で見込まれ婿となる。そして28歳のとき、新天地を求めてアメリカに渡り、日本美術の輸入販売を始める。そのとき立ち上げたのが山中商会で、まだ続いていた日本熱に乗り、世界的な美術商にのし上がる。もっとも著者は、すべてを定次郎の功に帰すことに対して慎重であるけれども。しかし日本心メリカは戦火を交えることになり、敵国資産管理人局により山由商会は清算され、美術史からも経済史からも消えていってしまう。
「世界の山中」がなぜ消えたのか。その謎を探ることが本書のライトモチーフとなっている。まず山中商会のお得意さんだった美術館やコレクターのアーカイブに保管される一次資料を、丹念に読み解いていく。ニューヨークの仮店舗から始まって、アメリカ各地へ、`やがてロンドンにも支店を開き、ヨーロッパ全域に顧客を広げていく成功物語は、。読むものを爽快な気分にしてくれる。
次に著者は、アメリカ国立公文書館カレッジパーク新館にある87箱もの押収資料と、敵国資産管理人局の年次報告書をつき合わせながら調べていく。日米開戦から1944年にかけて、アメリカ政府がどのように山中商会を解体していったか、すべてが白日の下にさらされる。この第3部がもっともスリリングだ。真実を解き明かそうとする、執念にも似た著者のエネルギーに、深い感動を覚えるのは私一人ではあるまい。
自分の身だけを守る卑怯な記者たち…5/5・12号、週刊文春から。
ジャーナリスト 上杉隆。
四月二十一日、枝野幸男官房長官は福島第一原発から二十キロ圏内を「警戒区域」に設定、立ち入り禁止とする、と発表した。
原発で最初の爆発が起きたのは三月十二日。枝野官房長官はその後も、「二十~三十キロ圏内は危険だという誤ったメッセージを発信しないため」として、避難指示を出してこなかった。
南相馬市を視察する枝野長官と防護服着用の報道陣
こうした政府の姿勢に、大手メディアも追随し、連日、「三十キロ圏外は安全です」「直ちに人体に影響の出る数値ではありません」と繰り返し報じてきた。現在も、政府が自主避難の対象としている三十キロ圏より外に関しては、その危険性を呼びかけている大手メディアはほとんどない。
今回の立ち入り禁止措置に対しても、朝日新聞は〈半径20キロという広範囲な生活圏を対象に退去を強制する措置は、極めて異例だ〉(22日付朝刊)と批判的に報じ、翌日の社説でも、〈国際放射線防護委員会が定めた事故後の緊急時の目安は20~100ミリシーベルトと幅が
ある。なぜ最も厳しい20ミリシーベルトを基準にして避難する必要があるのか、住民が納得できる説明がいる〉と異議を唱えている。
そんななか、被災地に散っている自由報道協会のフリー記者たちから、信じがたい情報が入ってきた。
「大手メディアの記者は、原発の五十キロ圈より内側で取材していないんだよ。十キロとか五キロとかに近づいているのはフリーや雑誌の記者、海外メディアばかり。記者に聞くと、社内規定で、入ってはいけないと決まっているらしい」
自分たちが報じていることとは裏腹に、大手メディアの記者たちは住民を裏切り、「内規」に基づいて、自らは遠い圏外に逃げているというのだ。
ツイッターでも、こんな疑問が投げかけられた。
〈日曜、取材で行った南相馬の人は、NHKに捜索活動をビデオを撮ってくれと頼まれたが、規定のため40キロ圏外までしか、とりに行かれないから、わざわざ、40キロの所まで届けに行ったと言っていました。おかしいと思います〉(地元フリー記者)
〈福島で被災者支援にあたっているNPOの代表者の話。某テレビ局が同行取材を申し入れながら、断ってきて、その理由を「社内規定で、原発から40キロ圏内には入れない」と説明された、という。そんな規定がある 報道機関が、よもや、まさか 本当にあるんだろうか??)(ジャーナリスト江川紹子氏)
朝日、民放は五十キロ
そこで取材してみると、確かに「内規」は存在した。その後、変更がなされた可能性はあるが、私が把握した時点では、NHKが四十
キロ、朝日新聞が五十キロ、時事通信が六十キロ、民放各局が五十キロ圏外に社員は退避、と定めていたのだ。
なんという欺隔であろう。「〝危険″だからけっして近寄るな」と会社に言われ、遠く離れた〝安全圏内″に身を置く記者たちが、放射線汚染の不安に直面する被災地の人々の安全を云々しているのだ。
もし自分たちの「内規」が正しいと思うなら、紙面や放送を通じて、それを主張し、政府などにも対応を迫るべきだろう。が、そんな社は皆無である。
民放記者の一人に尋ねた。
「仕方ないだろう、社のルールなんだから。そのかわり、三十キロ圏まではちゃんと制作会社のスタッフに行かせている。だから映像も流れているし、取材もしている。そんなことで文句言う方がおかしいんじゃないのか」
もはや、こうした記者が「原発報道」に携わること自体が罪である。少なくとも私自身は、共犯関係にはなりたくない。
今日の大阪は天気予報通り晴れなのに、強烈な黄砂襲来で、街が霞んでる。
今日の黄砂は、本当に酷い。
今日の大阪は天気予報通り晴れなのに、強烈な黄砂襲来で、街が霞んでる。
思うに、中国は、日本の放射能を云々する前に、自国の、この黄砂の成分分析をきちんとすべきだろう。
それは、日本にも言えること。…これが体に良い訳がない。
以前に九州大学かどこかの教授が成分分析を為した結果の記事を読んだ事があるのだ。
今日は、マスクをしなければ外は歩けないぞ…それほどに今日の黄砂は凄い。
なんか、顔が腫れぼったくなる感じなのである。