船場の顔、サヨナラ—伊藤忠商事大阪本社、42年の歴史に幕
大阪・船場のシンボルだった伊藤忠商事大阪本社が、42年の歴史に幕を下ろし、JR大阪駅の新ビルへと移転しました。明治時代から「東洋のマンチェスター」と称された大阪経済の中心地・船場と、繊維問屋から始まった伊藤忠の深い関わりを振り返るとともに、筆者自身のこの場所への個人的な思いも綴ります。
船場の顔サヨナラ…朝日新聞8月13日5面より
2011年08月13日
*以下は。私。
伊藤忠商事大阪本社が15日付で大阪・船場からJR大阪駅の新ビルに移転する。12日には現大阪本社でお別れの式典があり、社員ら約750人が参加。約42年間、「船場の顔」として親しまれた「伊藤忠ビル」との別れを惜しんだ。
新本社はJR大阪駅のノースゲートビルディングで、オフィスタワーの高層階に入る。この日の式典では、繊維部門の営業一筋で、ほとんど大阪勤務だった岡藤正広社長が「このビルで家庭よりも長い時間を過ごした。隅々に思い出が詰まっている」とあいさつ。
11日には社員ら約150人が本社周辺の路上などで清掃に取り組んだ。
現本社は1969年、創業100周年記念の一環で建設。98年に売却した後も賃貸で入居した。
大阪は明治時代の後半から「東洋のマンチェスター」と称され、紡績や織物業で躍進。船場は「なにわ経済」の中心地で繊維問屋が集まり、大手商社は「関西五綿」と呼ばれた。
その多くが中枢機能を東京に移転させたが、繊維問屋から出発した伊藤忠にとっても大阪本社は象徴の地になっている。(笹井継夫)
*この場所は、私にとっても感慨深い場所だった。社会人と成ってからの人生で出会った親友であるYさん、Kさんが働いていた場所でもあっり、芥川のビジネス人生において、最大の取引を為した場所でもあった。