奇縁まんだら:イサム・ノグチとの忘れられない交流

作家・僧侶の瀬戸内寂聴が、世界的芸術家イサム・ノグチとの不思議な縁を語るエッセイ。祇園の女将を通じて知ったノグチの意外な一面、そして徳島での阿波踊りの際に疲れ果てた彼にマッサージを施した忘れられないエピソードを綴ります。二人の間に流れた温かい交流と、才能あふれる巨匠の人間的な魅力が描かれています。

イサム・ノグチに秘術施す…日経新聞8月14日23面より
2011年08月14日
奇縁まんだら 瀬戸内 寂聴

世界的に著名な芸術家のイサム・ノグチは、多種多芸な点でも天才的だった。
岐阜提灯をモチーフにした白い笠の「あかり」シリーズの電灯器はロングセラーで、今も売れ続けているし、広島の平和大橋は彼のデザインによる。

彫刻家としての作品は本命だし、ノグチ・テーブルなどもデザインしてインテリアデザイナーの面もある。またアメリカや日本で彼の造った庭園も処所に見られ、造園家としても一流である。

父は日本の詩人野口米次郎、母はアメリカ人の作家で教育家のレオニー・ギルモア。ロサンゼルス生れの混血児である。母の考えで教育はアメリカで受けている。コロンビア大学の名誉博士号も授与された日系アメリカ人である。

こんな複雑な才能の天才と、この世で親しくなろうとは、夢にも予想したことがなかった。
ところが、ひょんなことから、知遇を得ることになる。私の小説「京まんだら」でモデルになってもらった祇園のお茶屋「みの家」の女将、吉村千万子さんが、ある時。

「イサム先生はうちのお客さんどすけど、それはいいお方どっせ。ハンサムで、上品で、インテリで、何より思いやりがあってやさしいて……」と絶讃する。生来、男に惚れっぽい性格の人だが、イサム・ノグチとはあくまで、客と女将の清い関係だという。

「イサム先生は李香蘭さんと離婚しはってからは、ずっとお独りどす。お淋しいし御不自由どっしゃろと思いますけど、一つ屋根の下に芸術家は二人は暮せない。李香蘭さんもれっきとした芸術家やったし、結婚生活はお互い無理やったとおっしやってはりました」

そういえば、一九五一年頃、二人の結婚がマスコミに派手に報道されていた。美男美女の大スターの並んだ、幸福そうな写真が、方々に出廻っていた。
イサム・ノグチ四七歳、李香蘭の山口淑子三一歳頃で、わけ知りの大人どうしの結婚として、華やかな話題をふりまいていた。

ところがその結婚はわずか四年しか保たなかった。
「うちでも、あんまり芸妓や舞妓呼ぶでもなし、私相手にあれこれお話するだけです。まあ、お喋りは私の方が受けもって、先生はお酒をひとりで召し上ってるだけで……」
それじゃお金にならない客じやないかというと、

「へえ、お客というより、気の合うお友だもというところどっしやろか」
と笑っている。女将が信奉しているハリ治療に京都に来る度案内するのが、唯一の役目だという。

女将の紹介を待つまでもなく、ある夏、イサム・ノグチが徳島へ阿波踊りに来て、私の阿波寂庵へ、新聞社の人に案内されてきた。お取り巻きが数人いたが、みんな浴衣の踊り姿だった。一踊りした後で、イサムさんだけがひどく疲れきっていた。

お互い、みの家の女将さんから話を聞いているので、初対面の気がしない。七十歳前後になっていたイサムさんは、その頃は香川県庵治町・牟礼町(現在高松市)で産出する庵治石をユネスコ庭園の作品素材に使ったことが縁になり、その町がすっかり気に入った。

そこに古風な日本家屋のアトリエを構え、日本での製作場所としていたのだった。当時の香川県知事の金子正則氏が芸術に造詣が深く、喜んでイサム・ノグチのアトリエ設営に便宜をはかったと聞く。

疲れきっているイサムさんに、私は得意のマッサージをほどこすことになった。人々がぐるりと取り巻いている輪の中に、イサムさんがうつ伏せになって伸び、私か秘術を公開した。

四十分もしたら、蒼白だったイサムさんの顔に血の気が上り、目に活力がもどってきた。
「すごい!大した腕だ。みの家の女将に報告しなきや、女将がつれていってくれるハリより、ずっと効いたよ」

元気になったイサムさんを、みんなでワッショイワッショイかつぎだすようにして、私も一緒にまた踊りに出かけた。桟敷は晴れがましいので、町のすみにある踊り場で、のんびり踊った。

イサムさんの阿波踊りは、身のこなしは軽かったが、手足が長く、蛸が踊っているようで、何だかおかしかった。

せっかくの奇縁で結ばれたが、お互い忙しく、みの家からよく電話で声を聞いたが、酒をくみ交す閑もないまま、ニューヨークでのイサムさんの死を突然聞いたのは、一九八八年の年の瀬であった。
享年八四。

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