「イカの心を探る」:知の世界に生きる海の霊長類
生物学者・長野敬による、池田譲氏の著書『イカの心を探る』の書評。イカが「海の霊長類」と呼ばれるゆえんを、その高度な知性や巨大な神経細胞の仕組みから解説します。タコとの比較や、ノーベル賞受賞研究、そして著者の独自の視点を取り入れながら、イカの「心の世界」に迫るユニークな一冊の魅力を伝えます。
「イカの心を探る」池田譲著…日経新聞8月14日21面より
2011年08月14日
「海の霊長類」の異色の解説 評・生物学者 長野敬
副題に「知の世界に生きる海の霊長類」とある。一瞬、なにごとかと思う。クジラ、イルカは知能が高いらしいが、霊長類とは聞いてないぞ。まさか人魚姫のことでは…。じつはこれ、深海探検家のJ・クストーがイカを指していった比喩を応用したせりふなのだ。
軟体動物の仲間には二枚貝や巻き貝、さらに貝殻のないナメクジやウミウシもいるが、どれもあまりぱっとした存在には見えない。そこにあってタコとイカの「知性」はひときわ目立つ。
われわれと酷似したカメラ眼で環境情報をさぐり、大きな中枢神経系(脳)で処理する。ヤリイカでは10本の腕のつけ根にある脳から、頭部の外套の裏に隠れた噴水孔まで信号を急送する神経細胞の枝が、ものすごく太い(直経O・5ミリほどの巨大軸索)。
これを使って神経興奮の伝導の仕組みを提唱したホジキンとハクスレーは1963年にノーベル賞を得た。生物物理学の創設期に故・松本元はイカの水槽内飼育に取り組み、成功した。
エソロジー(動物行動学)の開祖ローレンツは、わざわざ飼育槽の現場を見学に訪れた。他方、巨大軸索の発見者でもあるイギリスのJ・Z・ヤングは、タコの条件づけ実験もやった。タコに好物のカニと条件づけ用の白い板が並べて提示されている写真を見たのは何十年か前だが、今も印象に残っている。
本書はこうした代表的な業績にもそつなく触れつつ、しかしそこに深入りせず、新しいべつの展開--それが著者の研究主題――を中心とすることで、異色の解説書になった。
タコの隠者ふうの賢さに比べて、イカは社会(泳ぎまわる仲間、とらえにくる敵、さらに自分が育ち・行動する周囲環境)をより多く反映した「心の世界に生き」ているようだ。
「陸の高等動物」をそうした見方で見るのがエソロジーの立場だったが、なんと「海の霊長類」のイカにもこの理解は通用するらしい。
サル学、小鳥の歌、社会生物学、さらにはマキャベリの『君主論』や「赤ちゃん学」などの引用も、どれも単なる飾りでなく、議論の本筋と咬み合っている。鏡を見せられたアオリイカの「自己認識」の考察なども、こうした流れのもとでは空論どころか、説得力がある。