3代続いた陸軍の国際派—キャスター磯村尚徳が語る日露戦争と父の生涯

元NHKキャスターで外交評論家の磯村尚徳氏が、3代にわたる陸軍軍人だった家族の歴史を語ります。日露戦争で乃木希典や児玉源太郎の参謀を務めた祖父、そしてフランスに留学し諜報活動に従事した父の生涯を通じ、時代の激動と「陸軍の中の国際派」の苦悩を描き出します。筆者がパリで磯村氏と遭遇した個人的なエピソードも添えられています。

私は、25年ほど前に、パリの、ホテル・ムーリスで、ロビーに居た彼と遭遇した事があるのだった。
2011年08月15日

第7回今国際派と暗号 週刊司馬遼太郎 週刊朝日8/19号から。

かつてのNHK「ニュースセンター9時」の名キャスターで、外交評論家の磯村尚徳さんは、日露戦争にちょっと縁がある。

「うちは3代陸軍なんです」曽祖父の惟亮さんは旧加賀藩士で、のちに陸軍中佐となった。
その息子で、磯村さんの祖父にあたる年さんは陸軍大学校の恩賜の軍刀組で、ドイツ留学を経験した。
日露戦争に従軍し、乃木希典軍(第三軍)の兵姑担当の参謀となっている。
「乃木さんは部下には優しかったようです。二〇三高地で息子さん(保典)が亡くなり、その遺骨を日本に持って帰ったのが祖父だと聞いています。『大変すまないが、頼まれてくれますか』と、部下にも丁寧な言葉だったと聞いています」
年さんはその後、転戦して、児玉源太郎・満州軍総参謀長にもついた。
「奉天の会戦が勝利に終わった途端に児玉さんは参謀たちを集め、『日本は限界に近い。東京に行って戦争を終わらせるから、すぐに資料を用意しろ』といわれたそうです」
年さんはその後、第1次世界大戦などに従軍し、陸軍大将となった。
「日露戦争、真珠湾攻撃と日本はいつも奇襲攻撃をするといわれるが、発展途上で頼りない国ができることには限界があるから、仕方がない戦法だったんだよ」と、孫に語っていたという。

磯村さんの父、武亮ざんは、陸軍大学校を首席で卒業し、直ちにフランスに派遣された。
トルコの駐在武官、参謀本部のロシア課長などを歴任している。
「諜報活動に従事することが多かったようですね。トルコのイスタンブールは諜報戦の舞台で、アラビア語やトルコ語を話す若者たちが食客のようにごろごろしていました。ノモンハン事件のときは出兵に反対して、飛ばされてもいます。平家、海軍、国際派は天下が取れないといわれますが、うちの祖父も親父も陸軍のなかの国際派。いいたいこともいい、主流派にはなれなかったですね」
武亮さんは終戦間際に、ベトナムから帰還する途中、国内で撃墜されて亡くなり、中将となった。
「サイゴンを離れるとき、友人によれば、チャイコフスキーのレコードをずっと聴いていたそうです」
磯村さんはフランスの陸軍関係の大学に頼まれて講演をすることがよくある。
「最近、尖閣諸島の問題を話したのですが、会場に行くと、前列に中国人留学生かずらりといました。みんな目に輝きがあり、祖父や父の若いころはこうだったのかなと懐かしく思いました」
磯村さんは笑顔で語ってくれた。

*私は、25年ほど前に、パリの、ホテル・ムーリスで、ロビーに居た彼と遭遇した事があるのだった。

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