大島渚さんとのすれ違いと「文明のターンテーブル」への道

2013年1月28日
筆者は北新地のレストランで幾度も顔を合わせた映画監督・大島渚氏との未遂の会食を回想する。人生の中でのすれ違いを語りながら、自身が「文明のターンテーブル」を世界に届ける使命に至った経緯を振り返る。英訳を開始し、検索数が急増した喜びを記録した一篇。
映画監督・大島渚氏との、実現しなかった会食の思い出を綴るエッセイ。北新地の行きつけの店で、お互いの存在は知っていたものの、多忙が原因で直接話す機会を逃した経験を語る。人生の偶然や巡り合わせ、そして自身のオンライン作家としての活動が世界に受け入れられ始めたことへの喜びを振り返る。

2013-01-28
大島渚さんと私。
先日、亡くなられた大島渚さんと私は、一度も話をしたことはないが、顔は良く知っていた、そういう関係だったのである。
当然ながら、人となりも良く知っていたのである。
何故かと言うと、当時、私が頻繁に夕食を摂っていた店が北新地に在ったのだが、大島渚さんも、大阪に来るたびに、この店で夕食を摂っていたのである。

この店のオーナーで料理長であるMさんと、とても親しくなったのは最初の出会いの事が契機だった。
私は、当時、親しくしていた女性社長に連れられて、この店に行ったのだった。
その時に食べたあわびの美味しさに驚いたと同時に、そのあわびの由来が分かったのである。
淡路島産のアワビで、或る漁師さんが、毎日、舟に乗って、神戸大丸、北新地、心斎橋大丸と、魚をおろして帰って行くのである。
私は、この人のアワビに違いないと喝破した。
オーナーはその事に仰天したのである。
いまだかつて、魚の由来まで当てたような、御客さんはいないと、彼は驚いたのである。
それから本当に親しい付き合いが続いた。

当時の私は、本当に仕事が忙しかったから、レストランに夕食を摂りに行くのが、通常の夕食時間外と成る事もしばしばだった。
さて、或る時、Mさんが言ったのだった。
「大島さんが今度、奥さんと一緒に来るんだけれど、その時に、Kisaraさん、大島夫妻と一緒に食事しませんか?」
「大島さんに貴方の事を話したら、喜んで一緒に食事しましょうと仰っていたものだから」

お互いに、何度も拝見していたので、大島さんも、私の人間性は知っていたのである。
ところが、当時の私が本当に仕事が忙しかった事が災いして、約束の時間に大幅に遅れてしまった。
私がとても会いたかったのは言うまでもない。
ましてや奥さんである美人女優小山明子さんも一緒だったのだから。

「もう帰ってしまった?」
「いや、まだいらっしゃいますよ。入りますか?」
「いや、今夜はお会いしない事にします。」

程なくして、部屋から監督夫妻が出て来た。
大島夫妻と私は会釈したというか一瞥を交わした。
それが大島渚さんを観た最後の時だった。
その後に、彼が倒れたからである。
大島渚さんと対話出来ていたら、私の個人的な人生には大きなプラスだっただろう。

大島さん以前にも、同様のことが在った。
当時、人気NO1と言っても過言ではなかった女優さんが明治座で座長公演をしていた。
その千秋楽に、私に会いたいといっていると所属事務所の社長から連絡があり、当然ながら快諾したのだったが、この日も、仕事で上京できなかった。
結果として、私は、終生、言わば一人の人生を送り、今、こうして、世界に、The Turntable of Civilizationの哲理を届ける…それが、私の人生だったのだと思うのである。

先日来、英訳を開始した私は、早急に、The Turntable of Civilization の検索数が100万件になることを期していた。
昨夜、ヤフーで検索した時は、419,000件だった。
今朝、検索した時には、何と16,100,000件となっていたのである。
一気に世界中が、The Turntable of Civilizationに気付いてくれた。
これ以上、嬉しい事は無いな、と、私は思ったのである。

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