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師弟配流

事件の経緯は承元の法難を参照。

元久2年(1205年)、興福寺は九箇条の過失(「興福寺奏状」)を挙げ、朝廷に専修念仏の停止(ちょうじ)を訴える。

建永2年[注釈 18](1207年)2月、後鳥羽上皇の怒りに触れ、専修念仏の停止(ちょうじ)と西意善綽房・性願房・住蓮房・安楽房遵西の4名を死罪、法然ならびに親鸞を含む7名の弟子が流罪に処せられる。

この時、法然・親鸞らは僧籍を剥奪される。法然は「藤井元彦」、親鸞は「藤井善信」(ふじいよしざね)の俗名を与えられる。法然は土佐国番田へ、親鸞は越後国国府(現、新潟県上越市)に配流が決まる。

親鸞は「善信」の名を俗名に使われた事もあり、「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん) と名告リ、非僧非俗(ひそうひぞく)の生活を開始する。(「善信」から「親鸞」への改名については、入門「改名について」も参照。)

承元5年(1211年)3月3日、(栗澤信蓮房)明信が誕生する。

建暦元年(1211年)11月17日、流罪より5年後、岡崎中納言範光を通じて勅免の宣旨が順徳天皇より下る。

同月、法然に入洛の許可が下りる。

親鸞は、師との再会を願うものの、時期的に豪雪地帯の越後から京都へ戻ることが出来なかった。

建暦2年(1212年)1月25日、法然は京都で80歳をもって入滅する。

親鸞は、師との再会がもはや叶わないと知ったことと、子供が幼かったこともあり、京都に帰らず越後にとどまった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E9%B8%9Eから。


2012/6/16、京都府立植物園にて。

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