東国布教 …ウィキペディアから。
東国布教
建保2年(1214年)(流罪を赦免より3年後)、東国(関東)での布教活動のため、家族や性信などの門弟と共に越後を出発し、信濃国の善光寺から上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かう。
寺伝などの文献によると滞在した時期・期間に諸説あるが、建保2年に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216年)に「大山の草庵(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。
そして笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同所の吹雪谷という地に「稲田の草庵を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。
また、親鸞の主著『教行信証』は、「稲田の草庵」において4年の歳月をかけ、元仁元年(1224年)に草稿本を撰述したと伝えられる。
親鸞は、東国における布教活動を、これらの草庵を拠点に約20年間行う。
西念寺の寺伝では、妻の恵信尼は、京には同行せずに「稲田の草庵」に残ったとしている。文永9年(1272年)に、この地で没したとしている。
この関東布教時代の高弟は、後に「関東二十四輩」と呼ばれるようになる。その24人の高弟たちが、常陸や下野などで開山する。
それらの寺院は、現在43ヶ寺あり「二十四輩寺院」と呼ばれ存続している。

2012/6/16、京都府立植物園にて。